2015年1月4日日曜日

説教集B2012年:2012年主の公現(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 60章1~6節
第2朗読 エフェソの信徒への手紙 3章2,3b,5~6節
福音朗読 マタイによる福音書 2章1~12節

   イザヤ書の40章から55章までは第二イザヤの預言、56章から最後の66章までは第三イザヤの預言とされていますが、第二イザヤの預言に励まされ大きな夢と希望を抱いてバビロンから帰国した神の民は、エルサレムの荒廃の酷さに極度の落胆と失望を覚えたと思います。その時の現実は、確かに絶望的であったと思います。しかし、その絶望的現実に直面して神に心の眼を向け、神による導きと助けを願い求めつつ、困苦欠乏に耐えてこつこつと美しい未来を築こうとするのが、真の信仰だと思います。その忍耐強い実践的信仰と希望のある所に、全能の神からの導きと助けが働き始めてエルサレムは再び建て直され、明るく輝き始めるのですから。第三イザヤは、暗い貧困と欠乏の闇に覆われているエルサレムの上に働き出そうとしている神の力に眼を向けながら、本日の第一朗読の言葉を語っているのだと思います。「見よ、闇は地を覆い暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなた(エルサレム)の上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる」「エルサレムよ、起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く」「国々はあなたを照らす光に向かい、王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。目をあげて見渡すがよい。みな集いあなたの許に来る。云々」と。

   その預言の後半には、「駱駝の大群、ミディアンとエファの若い駱駝が、あなたの許に押し寄せる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る」というような、ソロモン王時代の繁栄を思わせるような言葉も読まれますが、その言葉通りの事が旧約末期のエルサレムに起こってはいません。しかし、多少なりともソロモン時代の繁栄を思わせ、偲ばせるような繁栄が、キリスト時代のエルサレムに実現しています。第三イザヤはその繁栄を、ソロモン時代のイメージで予告したのでしょうか。ローマのアウグストス皇帝の政策によって、長く続く国際的平和が打ち立てられ、シルクロード貿易が盛んになって商工業が大きく発展しましたが、その政策に積極的に協力して巧みに大儲けをしたヘロデ大王が、ニカノールという天才的建築師をギリシャから招聘し、大きな美しい大理石を大量に輸入して、それまでよりも遥かに大規模に美麗なエルサレム神殿を建て直したら、当時の世界各地から無数の巡礼団や国際貿易商たちがエルサレム神殿を訪れるようになりました。ソロモン王の宮殿の残骸が残っていた広大な敷地は、神殿の外庭として綺麗に整地され、それを囲んで大きな大理石の円柱が四列に並んで美しい屋根を支えている「ソロモンの回廊」が完成すると、その外庭では異邦人も自由に入って祈ったり献金したりすることができましたので、中央の大きな門の両脇に少し小さな門を配置した、大小三つの大理石の「美しの門」を見るためにも、大勢の異邦人がエルサレム神殿を訪れるようになりました。また新約聖書の諸所に読まれるように、雨や日照を避けて会合できる大きな「ソロモンの回廊」では、ラビたちも主イエスも使徒たちも、よく民衆に対する説教などをしていました。

   しかし、エルサレムがこのように大きく豊かに発展し、無数の異邦人がその神殿を訪れて神に祈る時代になっているのに、そこに住む神の民が、神から派遣されたメシアの新しい呼びかけを正しく識別せずに、自分たちの社会や経済や富中心の価値観に留まり続けていましたら、神はそのエルサレムを紀元70年に戦火によって徹底的廃虚としてしまわれました。神中心の信仰と価値観に生きていなかったからでした。現代の私たちも、気を付けましょう。現代の人類は、当時のユダヤ人とは比較にならない程豊かにまた自由に生活していますが、主キリストの福音を正しく受け止めて、心の底から神中心の生き方へと悔い改めなければ、外的には繁栄の絶頂に差し掛かっているように見える現代世界は、各種の内部分裂によって徹底的に崩され、2千年前のエルサレム神殿と同様に廃虚とされてしまうかも知れませんから。福音書を読みますと、キリスト時代のユダヤには悪魔に憑かれた人が多かったように見えますが、使徒ヨハネの第一書簡2章には、反キリストの多く出現することが終りの時の徴とされています。当時のエルサレム滅亡の数年前、十数年前には、多くの真面目な人たちや役職者たちが次々と突然に刺し殺されています。現代の人類社会にも、悪霊たちの唆しによるのか、それよりはもっと過激な自爆テロや無差別殺人などが多発しています。これからの現代社会は次第にそれらの出来事を阻止し抑止する力を失って、社会不安が急速に広まり深刻化するのではないでしょうか。既に経済や政治の分野でも、様々の乱れや分裂が始まっているように見えます。

   本日の福音の始めには「ヘロデ王の時代に」とありますが、大規模な国際的経済発展の流れに乗って、エルサレム神殿を大きく美しく増改築し、それによってエルサレムの都をもそれまでとは比較にならない程豊かにしつつあった外的功績のため、「ヘロデ大王」とまで呼ばれていた国王が支配していた時、神はその社会の貧しい下層民の所に神の御子メシアをか弱い幼児となしてお遣わしになりました。その誕生を、予てから予告されていた星の徴によって知った東方の星占いの博士たちに、遠路はるばるその幼児を訪ねさせ、拝ませるようお計らいになりました。彼らがエルサレムに来てヘロデ王を訪ね、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」と話したら、王はすぐにその幼児が予ねて預言者たちによって予告されていたメシアであると理解し、メシアがどこに生れることになっているかを、祭司長や律法学者たちから聞き出して、博士たちをベトレヘムへ送り出しました。しかしその時、密かに博士たちを呼び寄せて星の現れた時期を確かめてから、「行ってその子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。私も行って拝もう」と依頼しました。博士たちからの詳しい知らせを得てから、自分の支配権を危険にするその幼児を殺害しよう、と考えたのだと思います。しかし、神の介入によって王のこの計画は見事に裏切られ、夢でヘロデ王の計画を知らされたヨゼフは、夜闇の内に幼児とその母マリアを連れてエジプトに逃れ、博士たちからの贈り物を生活費として、ヘロデ王が死ぬまでエジプトに滞在していました。


   終末時代の様相を濃くすると思われるこれからの現代社会においても、神との心の繋がりを祈りによって深め、聖家族たちのように、貧しさを厭わずに神への愛と徹底的従順に生きるよう心がけるなら、社会がどれ程乱れても、神から不思議に護り導かれて、全ての困難・危険に耐えて逞しく生き抜くことができると信じます。どんな不安や苦難をも恐れないようにしましょう。それらは全て、私たちの心を一層深く神へと導くもの、神の内に一層強く生きさせるものだと思います。主の公現の祭日に当たり、主は助けを必要としている貧しい人々の中で私たちに現れ、私たちの信仰と愛をお受けになることを忘れないように致しましょう。