2015年1月18日日曜日

説教集B2012年:2012年間第2主日(三ケ日)

第1朗読 サムエル記上 3章3b~10、19節
第2朗読 コリントの信徒への手紙一 6章13c~15a、17~20節
福音朗読 ヨハネによる福音書 1章35~42節

    本日の第一朗読には、まだ子供であった後年のサムエル預言者に対する、神の数度に及ぶ呼びかけが述べられています。少年のサムエルは「神の箱が安置されていた主の神殿に寝ていた」とありますが、シナイ山でモーセに与えられた十戒を刻む石の板を納めた契約の箱は、まだシナイ半島の砂漠に滞在していた時の幕屋、すなわち必要に応じて自由にその場所を移動することのできる大きなテントの中に置かれていました。特定の地所での神殿は、ダビデ王がエルサレムを占領し、その後継者ソロモン王が立派に建設するまではまだ無かったからでした。少年サムエルは、契約の箱のあるその大きな幕屋の片隅を自分の寝どころとしていたのだと思われます。四度目の神の呼びかけに、サムエルが祭司エリの勧めに従って「どうぞ、お語り下さい。僕は聞いています」と神に申し上げた言葉は、大切だと思います。この世の出来事や情報だけに心を向け、自分の考えに従って生きるのではなく、何よりも私たちの心の奥に呼びかけておられる神の声に心の耳を傾け、そのお言葉に従って生きる生き方を、神は私たちからも求めておられると思うからです。まずその神の隠れた現存に対する信仰を新たにしながら、何も聞こえなくても、神に心の耳を傾けながら毎日少しの時間、神と共に「神の僕」として静かに留まるように心掛けてみましょう。そのように心がけていますと、やがてはその神が自分の心の中でもそっと働いて下さるのを、実感するようになります。

    本日の第二朗読に読まれる、「あなた方の体は神から戴いた聖霊が宿って下さる神殿であり、あなた方はもはや自分自身のものではないのです。あなた方は代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」という使徒パウロの言葉も、大切だと思います。大きな善意からではあっても、神のため自分の人間的考えを中心にして何かを為そうとする信仰生活は、まだ神の霊の器・神殿としての生き方ではなく、悪く言うなら、神の愛と働きを人間側から利用しようとする生き方だと思います。もちろん、それでも神を信じない生き方よりは増しですから、憐み深く寛大な神は、そのような信仰者の願いにもお耳を傾けて下さるでしょう。しかし、いつまでも人間の考えや意欲中心のその生き方に留まり続け、そこから抜け出て神中心の生き方へと高く昇ろうとしないなら、私たちの体を神殿としてその中に宿っておられる聖霊の期待を無視することになり、聖霊を悲しませるのではないでしょうか。前述した使徒パウロの言葉は、そのような自分中心・人間中心の信仰生活を続けている人たちに対する警告であると思います。私たちの体は神の聖霊の神殿であって、自分の考えや意欲を無にして、サムエル預言者のように徹底的に神の僕として神のお考え通りに生きようと心掛ける時に、神はこの体を御自身の神殿としてお住み下さり、私たちの上にも周辺の人々の上にも豊かな恵みを与えて下さるのではないでしょうか。


    ただ神に熱心に祈り求めるだけ、神が働いて下さるのを待つだけというのでは足りません。私たちの側でも、日常の小さな出会いや出来事の中で、神への愛や従順などを実践的に表明する必要があると思います。本日の福音によると、洗礼者ヨハネは歩いて通り過ぎられる主イエスを見て、一緒にいた二人の弟子ヨハネとアンデレに「見よ、神の小羊だ」と話しました。すると二人の弟子はその主の後について行きました。主は二人のこの小さな実践を受け止めて働いて下さいます。そして二人とその兄弟たちが、やがて主の使徒となって働く恵みにまで、お導き下さったのです。やはり平凡な日常生活の中での小さな出会いを大切にし、神よりのものと思うものには積極的に従おう、協力しよう、奉仕しようとする小さな実践の積み重ねが、私たちの上に神の豊かな祝福を齎すのではないでしょうか。神は隠れた所からいつも私たちに伴っておられ、私たちの全ての行いを見ておられるという信仰を新たにし、その信仰の内にいつも神と共に生きるよう心がけましょう。