2014年12月21日日曜日

説教集B2012年:2011年待降節第4主日(三ケ日)

第1朗読 サムエル記下 7章1~5、8b~12、14a、16節
第2朗読 ローマの信徒への手紙 16章25~27節
福音朗読 ルカによる福音書 1章26~38節

   本日の第一朗読に登場するダビデは、皆様ご存じのように、ベトレヘムで羊の群れの世話をしていた時から神の霊の力によって特別に守り導かれ、遂に紀元前千年頃にイスラエルの王位につき、堅固な城壁に守られていたエルサレムの町を占領して、王国の首都とした人であります。神の霊はその後もダビデ王の中に働いて、まだ周辺の各地に残っていたイスラエル人の敵たちを次々と退け、王国の安泰を確実なものとしましたが、こうして王国の平和が確立されると、王は内政の充実に心を向けたようで、神を崇めるための神殿を首都エルサレムに建設することを思い立ったようです。それで、預言者ナタンに「私はレバノン杉の王宮に住んでいるが、神の箱(すなわちモーセの時からイスラエルの民の中での神の現存を表示する契約の箱)は、(モーセの時以来の伝統をそのままに順守して今も)天幕を張った(移動式幕屋の)中に置かれているが」と、相談してみました。それに対する預言者の答えと、その夜に神がナタン預言者に現れて、ダビデ王に告げさせた神の御言葉とが、本日の第一朗読の内容であります。神はダビデ王の厚意の企画を喜ばれたようで、ダビデの子孫の王国を「揺るぎないものとする」と約束なさいます。ここで神が単数形で話しておられる「子孫」は、主イエスが来臨なされてからは、神の御子キリストを指していることが明らかになりました。

   余談になりますが、私の友人で1963年からイスラエルのヘブライ大学に留学し、77年にヘブライ文学博士号を取得した手塚という学者によると、2千年前頃のユダヤ教のラビたちの書き残している古くからの伝えによると、ダビデは父エッサイの正妻の子ではなく、一番最後に生まれた側女の子だったので、年上の兄弟たちの前では少し遠慮しなければならない立場に置かれていたようです。預言者サムエルがその家に来た時も、エッサイは七人の息子たちは次々と紹介しましたが、末っ子のダビデには野原で羊の群れの番をさせていました。預言者から「あなたの息子はこれだけですか」と尋ねられて、初めてダビデを呼んで来させました。すると神は、兄弟たちの間で少し肩身の狭い思いをしていたこのダビデに、サムエルが聖油を注ぐことをお命じになり、この時からダビデは、子供ながらライオンにも立ち向かって、その口から羊を救い出す程の聖霊の力を身につけるに至ったようです。「神の力は弱いところに発揮される」と申しますが、外的この世的に貧しく弱い状態に置かれていることを喜ぶように心掛けましょう。神の霊はその状態にあってひたすら信仰に生きる小さい者の心の中で、特別によく働いて下さると信じます。

   本日の第二朗読には、「この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです」という言葉が読まれます。現代にはよく「福音宣教」という言葉を耳にしますが、その言葉を口にする人たちが善意からではありますが、キリストの福音を人々に分かり易く合理的に説明しようと努めているように見えるのは、少し残念だと思います。福音は、あの世の永遠の神が編み出したご計画の神秘を宿しているもので、その神秘はこの世の理知的な人間理性では分かり得ないものだと思います。ですから使徒パウロも本日の朗読箇所の中に、「信仰による従順に導くため」という言葉を付記しています。理性では知り得ない神よりの啓示を、そのまま信仰と従順の心で受け止め、そのお言葉通りに生活しよう実践しようと心がけていますと、その心の中に神の愛の霊が働いて、神の導きや神秘に対する新しい霊のセンスを実践を介して育てて下さるのではないでしょうか。少年ダビデも、合理主義的な理性の力によってではなく、神から注がれ実践的に磨き上げられたその霊のセンスに導かれつつ、数々の困難を乗り越えて王位に就くことができたのだと思います。私たちも己を無にして、すなわち自分の理知的な考えゃ望みを無にして、神の神秘なご計画に対する信仰と従順に実践的に努めるよう心がけましょう。そうすれば、その実践的証しを目撃して感動したり興味を抱いたりする人々の心に、福音の神秘が伝わって行くと思います。


   本日の福音は、おとめマリアに天使ガブリエルを介して告げられた神のご計画であります。日頃から神の御導きに対する信仰と従順のセンスを実践的に磨いていたと思われるマリアは、落ち着いて冷静にそのお告げを受け止め、どのようにしてその男の子を産む種を頂くのかという質問をしただけで、その返答を聞くと、「私は主の婢です。お言葉通りこの身になりますように」と承諾し、神のご計画に徹底的に従います。しかし、天使が去った後には、どのようにしてその神秘をヨゼフに説明し、その子を育てるための協力を得たらよいかなどと、人間的にはいくら考えても名案が思い浮かばないことが、次々と心を悩まし始めたと思われます。将来自分を悩まし苦しめることになる様々の出来事については、まだ何も告げられていないからです。でもマリアは、その時その時に苦しむ自分の心に聖霊が働いて導いて下さるという信頼と従順の心を新たにしながら、神へのお任せと信頼の心でひたすら神に心の眼を向けて祈りつつ、新たに生き始めたのではないでしょうか。クリスマスを間近にして、私たちも乙女マリアのこの生活態度に見習うよう心がけましょう。今年は311日の東日本大震災と原発事故によって日本社会が大きく揺さぶられましたが、これは将来起こるもっと深刻な出来事の前触れなのかも知れません。ひと昔前に比べますと、今日では欧米の経済事情も、地球温暖化による環境や気象の悪化も、深刻になりつつあります。世界各地での戦争の危機も高まることでしょう。このような現実的不安を目前にして、私たちも聖母マリアに生き方に学んで、日々ひたすら神の働きに依り頼みつつ、祈りと信頼と従順の心で生き抜きましょう。全能の神が、全ての苦難から私たちを救い出して下さると信じます。