2014年12月25日木曜日

説教集B2012年:2011年降誕祭日中のミサ(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 9章1~3、5~6節
第2朗読 テトスへの手紙 2章11~14節
福音朗読 ルカによる福音書 2章1~14節

   本日の日中降誕祭ミサの福音は、ヨハネ福音書の冒頭を飾っている荘厳な序文からの引用であります。旧約聖書の冒頭を飾る創世記は、「初めに神は天と地を創造された」と万物の本源であられる神から説き起こしていますが、使徒ヨハネもそれに模して、新約の福音を全知全能の神から説き起こしています。神の言(ロゴス)によって万物が創造されたのであり、そのロゴスが万物を生かす命であり、私たち人間を照らす真の光であると説いてから、そのロゴスが人間となってこの世に来臨なされた所から、福音を説き始めたのです。それで本日は、ヨハネのこのような神観念について、ご一緒に少し考えてみましょう。

   と申しますのは、第二バチカン公会議が「世界に開かれた教会」を一つの努力目標に掲げましたら、ヘブライズムの思想的流れの中で生まれたキリスト教が、生まれてすぐギリシャ・ローマ的な理知的哲学思想の流れの中に広まって、その流れの中で生まれ育った人々に教えを宣べ伝えるために、ごく自然にその哲学思想の影響を受けて、自由や動きの乏しい堅苦しい神学に傾いてしまったように、今日では、主イエスの原初の自由な精神に立ち戻って、開放的自由と動的力に溢れた福音を、思想的に多様化している現代の諸民族に宣べ伝えるべきではないかというような思想が、公会議後一部の若手知識人たちの間に広まり、キリストの福音を相異なる各民族文化の受け入れ地盤に適合し易い形で宣べ伝えようとする道が、模索されているからです。南米での「解放の神学」をはじめ、アジアの一部の国々やわが国でも様々な試みがなされて来ました。

   しかし、ローマ教皇庁はそういう動向に対しては、公会議の精神を誤解した偏った試みとしていつも少し警戒しているように見えます。公会議開催中のローマに留学していて、多少なりともその精神を体験して来た私も、同様に感じています。教会は数々の問題を抱えて苦しんでいる現代世界に大きく心を開いて、それらの問題の解決に協力しようとしていますが、しかし、神が救いの御業の主導権を握っておられ、私たちは神の導きに従って、主キリストが創始された伝統を尊重しながら生きる従順によって救われるのだという、初代教会以来の大原則については少しも変わっていないからです。人間の理知的発想が主導権をとったり、過去の人間が産み出した様々の文化が中心になって、キリストの福音を文化圏毎に多様化させてはならないと思います。それらはいずれも、人間的・文化的には価値ある試みでしょうが、神の御前では陶工の前にある粘土のようなものであり、主導権を握る神の霊に徹底的に従おうとする信仰と従順の精神がなければ、それらの新しい人間的試みから、神に喜ばれる実りは結び得ないと思われるからです。

   使徒ヨハネは、一切の妥協を許さない光のイメージで、罪の闇を退ける強い神を提示し、その光を隠して近づく神の言(ロゴス)を、受け入れ信じる人たちを救い出そうとしている神の愛を提示していますが、公会議後の一部の進歩的神学者や知識人たち、特にドイツ辺りで活躍している知識人たちは、非キリスト教的諸文化に対する協調精神や柔軟性に欠ける、そういう非妥協的な神の働きを退け、今の世の流れと妥協させようとしているように見えます。しかし、使徒ヨハネの神観念や神の御子理解に真っ向から対立する、そのような現代の流行思想に対しては、優れた神学者であられる現教皇をはじめ、今日では反対するカトリック者たちも少なくありません。今年の9月下旬にドイツ政府からの招きを受けて、教皇として三度目にドイツを訪問し、この度は東ドイツにまでも足を伸ばした教皇は、一部の過激な知識人たちやマスコミから、カトリック教会をもっと今の世の流れに適合させるよう求められ、カトリックの保守主義がかつてなかった程激しく攻撃されました。彼らは司祭独身制の廃止、女性司祭の登用、信徒による司教の選出等々、多くのことを教皇に要求しましたが、教皇は平然と話し続けて屈しませんでした。悪霊たちがマスコミを駆り立てたのではないでしょうか。

   私は、キリスト教が旧約時代のヘブライズムの流れを大きく広げて、ギリシャ・ローマ文化の流れの中に乗り出し、そこに私たちの受け継いでいる伝統的神学を産み出したのは、神の御旨であったと確信しています。1世紀後半から2世紀後半にかけては、ギリシャ・ローマ思想に基盤を置く「グノーシス思想」と言われた異端思想も数多く発生しましたが、使徒ヨハネの孫弟子に当たる2世紀の神学者聖エイレナイオス司教の活躍で、それらの異端説は全て見事に批判され排除されて、神中心・神の御旨中心のキリスト教神学の道が開かれたからです。私は、外的には全てが極度に多様化しつつあるように見える現代においても、神の導きと働きによって確立されたこの西洋的伝統に踏み止まって、世界諸民族の伝統文化を神中心・神の御旨中心に新たに統合し発展させるのが、現代のキリスト教会に課せられている神よりの使命であると信じています。その使命達成のためには、全てを人間中心に評価し判断する理性や各民族文化の伝統が主導権を取るべきではなく、「私は主の婢です」と答えて、神から示された全く新しいご計画に徹底的に従い協力する意思を表明なされた聖母マリアのように、神からの啓示やお導きに徹底的に従う精神が、主導権を取るべきであると考えます。詩編103:14には、「主は私たちが塵にすぎないことを御心に留めておられる」とありますが、塵にすぎない人間の考えに神の働きを従わせようとするような傲慢な試みは慎むのが、神の祝福を豊かに受ける道であると思います。


   神の御子イエスは、復活して昇天なされた後にも、世の終わりまで目に見えないながらも私たちに伴っておられ、この御降誕祭には霊的に私たちの奥底の心、無意識界の心の中にお生まれになると信じられています。夢のような話ですが、幼子のように素直な心でこの信仰の神秘を受け止め信じる心には、神の恵みが実際に豊かに注がれます。多くの聖人たちがそのことを体験し証言しています。私たちもその模範に倣い、この降誕節の間幼子のように単純素朴な心、従順な心に立ち返り、私たちの心の奥の無意識界に現存しておられる幼子の主イエスと共に、喜びも苦しみも全てを感謝の心で、父なる神から受けるように心がけましょう。その時、神の恵みが私たちの生活に豊かに溢れているのを実感するようになると信じます。