2016年10月30日日曜日

説教集C2013年:2013年間第31主日(三ケ日で)

第1朗読 知恵の書 11章22~12章2節
第2朗読 テサロニケの信徒への手紙二 1章11~2章2節
福音朗読 ルカによる福音書 19章1~10節

  本日の第一朗読には、全宇宙の創り主であられる神に対して「あなたは全ての人を憐れみ、改心させようとして人々の罪を見過ごされる」という言葉が読まれ、続いて「あなたは存在するもの全てを愛し、お創りになったものを何一つ嫌われない。憎んでおられるなら、創られなかったはずだ」だの、「命を愛される主よ、全てはあなたのもの、あなたは全てをいとおしまれる。あなたの不滅の霊が全てのものの中にある」だの、更に「主よ、あなたは罪に陥る者を少しづつ懲らしめ、罪のきっかけを思い出させて人を諭される。悪を捨てて、あなたを信じるようになるために」などの言葉が読まれます。いずれも万物を創造なされた全能の神の、存在する全ての被造物、全ての人に対する限度なしの大きな愛を、目的論の立場から断言している、貴重な聖書の言葉だと思います。

  今年の1020日「世界宣教の日」の教皇フランシスコのメッセージの日本語訳全文が、先週のカトリック新聞に載っていましたので、皆様も既にご存知のことですが、その中で教皇が、「神は私たちの命をもっと意味深く、良く、美しくするために、自らの命を分け与えることを望んでおられます。神は私たちを愛しておられるのです」「一人ひとりがそれに応え、私たち自身を神に委ねる勇気が必要です。信仰はわずかな人々のためではなく、惜しみなく与えられている贈り物なのです。全ての人が、神に愛されるという喜び、救いの喜びを経験できるはずです。それは決して独り占めすねものではなく、ともに分かち合うものなのです。云々」と、全ての人を愛し、全ての人にご自身の命を分け与え、強く、美しく、幸せになってもらおうと切望しておられる神の強い強い愛の観点から、私たちキリスト者の宣教活動の必要性を説き起こしておられることは、注目に値します。宣教は「キリスト者の生活において二次的なものではなく、本質的なものなのです。即ち私たちは皆、兄弟姉妹と世の道を歩み、キリストに対する私たちの信仰を証しし、宣言し、キリストの福音の使者となるよう招かれているのです。云々」と全てのキリスト者に、自分の置かれている生活の場で福音の使者となって働く使命があることが強調されていることも、大切だと思います。

  同じ思想は、私がローマに留学していた時に、第二ヴァチカン公会議の議場でも強調されていました。しかし、ここで言われている「宣教活動」を、口や文筆で福音の真理を述べ伝えることなどと、短絡的に受け止めないよう気をつけましょう。そのようなチャンスは神の摂理によってごく少数の人に、しかも限られた機会に与えられているだけで、特に観想修道会の修道女たちには神のお望みにならない宣教活動であると思います。私は頻繁に外出して福音を知らない無数の人たちに出遭いますが、誰彼と区別無く福音を語ろうとはしていません。これまでに臨終洗礼を含めると百人以上の人に洗礼を授けていますが、日頃出遭う人たちには黙々と祈りの宣教を為しているだけで、口を使っての宣教は殆どしていません。どこの家に入っても、どのバスや電車に乗っても、主がお弟子たちを宣教に派遣なされた時のお言葉に従って、そこに「平和があるように」と祈っています。すると恵みの時に聖霊が働いて、まだ外的成果は少ないですが、その地方に神に従う人たちが増えつつあるように感じています。神は私たちから、まずはこのような祈りの宣教をお求めなのできはないでしょうか。

  本日の第二朗読の終りには「主の日が既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないで欲しい」という言葉が読まれます。使徒パウロがこのすぐ後に書いている話によると、まず初めに神への反逆が起こり、神の掟に逆らう「滅びの子」が現れて、自分を神として神の聖所に座を占めるに至るそうです。神の掟に逆らうその力は既に活動していますが、その活動を引き止めている者が退く時に表に現れ、サタンの力によって様々の徴や不思議な現象を為し、多くの人を悪へと誘い込むようです。主キリストが再臨なさる世の終わり前のそのような出来事は、遠からず発生するかも知れませんが、動揺しないように気をつけましょう。多くの預言を的確に実現させていた聖ヨハネ・ボスコは、世の終わり前にローマ教皇がヴァチカン宮殿を去る予言的幻を見ています。現代世界経済の動きの中では、そのような事態が実際に近い将来に発生するかも知れません。驚いてはいけません。神の愛と憐れみに信頼して生き抜くように努めましょう。


  本日の福音に登場する徴税人ザアカイは、雇い主のローマ総督側から既定の税金に少し輪をかけて住民から徴収し、こうして蓄積した税収の中から不作や天災の年にも、毎年既定額の税金をローマ側に納入するよう決められていたので、その仕事で金持ちになってはいましたが、異教徒の国ローマの支配のために働くユダヤ社会の敵と思われて、ユダヤ人たちの間では肩身の狭い思いをしており、ユダヤ教の教えや律法のことも詳しくは知らずにいたと思われます。彼がいたエリコの町に救い主と噂されている主がやって来られたというので、背丈の低い自分もひと目その方を見てみたいと思い、先回りして大きな桑葉無花果の木に登り、よく茂ったたくさんの葉の陰からそっと主を垣間見ていたようです。しかし、主はその木の下をお通りになる時、上を見上げて「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日はぜひあなたの家に泊まりたい」とおっしゃいました。ギリシャ語を直訳しますと、「私は今日あなたの家に泊まらなければならない」とおっしったようです。誰もが羨む程の光栄が、彼に提供されたのです。衆目を浴びたザアカイは急いで降りて来て、喜んで主を自宅に迎え入れました。そしてその喜びのうちに、今日からは貧しい人たちのために生きようという、自分の新しい決心を主に表明しました。すると主は、「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。云々」とおっしゃいました。聖書のことはよく知らなくても、自分中心の古いエゴから抜け出て、神の愛に生きようとする人は皆、アブラハムに約束された祝福に参与する者、神の子らとして神から愛され護られ導かれて、神の永遠の幸福・仕合せへと高められて行くのです。このことは、現代の私たちにとっても同じだと思います。ザアカイのように、「今日」、すなわち神が特別に私たちの近くにお出で下さるこの日に、神からの祝福を喜んで自分の心の中に迎え入れるよう心がけましょう。本日の第一朗読に述べられているように、全能の神はお創りになった全ての人を愛し憐れみ、その罪を見過ごして回心させようと心掛けておられる方なのですから。