2016年10月16日日曜日

説教集C2013年:2013年間第29主日(三ケ日で)

第1朗読 出エジプト記 17章8~13節
第2朗読 テモテへの手紙二 3章14~4章2節
福音朗読 ルカによる福音書 18章1~8節

  本日の第一朗読には、「アーロンとフルがモーセの両側に立って、彼の手を支えた」という言葉が読まれますが、これは旧約時代の神の民が神に祈る時、両手を斜め上に高く挙げる姿勢で祈っていたからだと思います。初代のキリスト教会でもそのような姿勢で祈っており、その名残は今でもミサの司式司祭が祈願文を唱える時などに残っています。キリスト教会に両手を合わせて祈る慣習が広まったのは、シルクロード貿易で盛んになった東西文化の交流で、両手を合わせて祈るインドやシャム辺りの慎ましい慣習が導入された、2, 3世紀頃からだと思われます。

  モーセが手を挙げて祈るとイスラエル人が勝ち、疲れて手を下ろし祈りを止めるとアマレク人が勝ったという言葉を、外的短絡的に理解しないよう気をつけましょう。神は祈りを止めると、すぐ援助を止めてしまわれるような方ではありません。モーセが初めに指揮者ヨシュアに「私は神の杖を手に持って、丘の上に立つ」と告げたことを見落としてはなりません。神の杖、これはモーセが数々の偉大な神の業を遂行するために、シナイ山麓で神から与えられた神の力の篭もる道具であり、神が共にいて下さる徴でもありました。この杖を差し上げてエジプト軍を海の底に沈めたモーセは、今はイスラエル人たちを滅ぼし尽くそうとしてやって来た強大なアマレク軍を目前にし、民族存亡の危機を痛感しながらも、この杖を持って丘の上に立ったのです。まともに戦ったら少人数のイスラエル軍に勝ち目はありません。しかしモーセは、全能の神に対する不動の信頼心の内に、丘の上から両軍を見下ろしながら神に祈ったのです。神は、エジプト軍の追跡を受けた時のようにすぐには大きく働いて下さいませんでしたが、しかし日没前には、ヨシュアに決定的勝利を与えて下さいました。神の杖に対するモーセの信仰と信頼、そこに注目しそこから学ぶようにしましょう。実は私たちも、目に見えないながらそのような神の杖を、洗礼によって神から頂戴しているのです。しかしその杖は私たちの心の奥底、霊魂に刻まれていますので、それを取り出して全能の神に働いて戴くには、モーセのように真剣に祈ることや、神現存の信仰に生きることが必要だと思います。

  現代文明は極度の便利さと多様化・個人主義化などによって全ての伝統的共同体を弱体化し、内側から崩壊させつつあるようですが、現代社会のそのような流れの中で生まれ育ち、自由主義教育・能力主義教育を受けて大人になった日本人の中には、全てが極度に多様化しつつある現代のグローバル社会のどこにも、自分の個性や自由を生かす地盤を見出すことができずに、孤独と不安に苦しんでいる人たちが少なくないようです。学校では良い成績を取得していた人であっても、自分の個性を自由に生かして働く場が見出せないと、夜に眠れなくなったり薬物に手を染めたりして深刻に苦悩し、自分の個性を捨てきれずに自死を考える人たちもいるようです。このような精神的マイナス面が露わになっている日本社会に福音を広めるには、宣教者自身が日々感謝と喜びの内に生きているという姿を示す必要があると思います。心に苦悩や絶望を抱えている人の心は、頭に福音の真理を解説する話よりも、実際に神に支えられ神と共に生き生きと生活している人の生活実践を見てみたい、と望んでいるからです。それには、どうしたら良いでしょうか。

  以前に南山大学でも講演してくれた聖心会のSr.鈴木秀子さんは、最近「幸せ癖をつけましょう」と題する京都での講演の中で、旅先で列車に乗り遅れても、その他どんな不運や失敗に出遭っても、それを新しい生き方をしてみせるチャンスと受け止め、マイナスの言葉を口にしないよう勧めています。「日本では言霊と言って言葉には力があるとされています」。従って不安の言葉や脅しの言葉などを口にしていると、「言葉には力がありますから」心は幸せになれません。「幸せは自分の心の中に育てるものです」。命があるという、ごく当たり前のことにも神に感謝し、喧嘩している人と仲直りしたい、家族の人たちに心から感謝したい、「家族がいる、歩ける、食べられる、自分一人でお手洗いに行ける、目がある、手がある」などと、いつも幸せ言葉を口にしていましょう。するとその言葉が神の御心を動かして幸せへの新しい道が開かれて来ます、と私はその講演の趣旨を受け止めました。毎日神様に向かって笑顔で、「有難うございます」「感謝しています」「希望しています」などと個人的に申し上げるのも、一つの幸せ癖だと思います。私は、孤独や不安などに苛まれている現代人の心に神からの希望の光が注がれるよう願いつつ、マイナス言葉を避けて、日に幾度も父なる神にそのように申し上げ、感謝と希望の精神で神と共に喜んで生きるよう心がけています。

  本日の福音の中で、主は「気を落とさずに絶えず祈り」続けることを教えるため、一つの譬え話を語っておられます。出エジプト記22章には、「寡婦や孤児を全て、苦しめてはならない。もしあなたが彼を苦しめ、彼が私に叫ぶなら、私は必ずその叫びを聞き入れる」という、神の厳しい警告の言葉が読まれます。本日の福音に登場する不正な裁判官は神の裁きを恐れず、人を人とも思わないような人だったので、聖書のその言葉は知っていても、寡婦の訴えなどは取り上げようとしなかったのだと思います。察するに、その訴えは古代にも多かった遺産問題のトラブルだったでしょう。遺産を横取りされて貧困に苦しむ寡婦が訴え続け、叫び続けていたのだと思います。初めはそんな複雑な遺産問題などは取り合おうとしなかった裁判官も、遂にその寡婦の執念に負けて、裁判に立ち上がったようですが、神信仰に生きる人も、心の執念と言うこともできる不屈の真剣な信仰の叫びを持ち続けて欲しい、そうすれば神は、夜昼叫び求めて止まない信者の願いをいつまでもほうふっておかれることは無い、というのがこの譬え話の趣旨だと思います。

  必要なものを一言で、あるいはワンタッチで入手できる豊かさと便利さに慣れている現代人には、祈りの中で二、三度申し上げても神に聞き入れられなかった願い事を、いつまでも根気強く願い続けるということは難しいかも知れません。しかし神は、私たちの口先だけの祈り言葉ではなく、もっと苦しんで奥底の心を目覚めさせ、心の底から真剣になって祈るのを待っておられるのではないでしょうか。日々真剣に根気強く祈る人の祈りは、必ず神に聞き入れられます。それが、主がこの譬え話を通して教えておられる真理だと思います。忍耐して根気強く祈り続けても、神は少しも変わらず沈黙しておられるかも知れません。しかし、苦しみながらのその祈りによって、私たちの心はゆっくりと変わり始め、神が待っておられる心の底の霊的土壌の中に根を下ろし始めるのです。

  大正13年に栃木県の足利市に生まれ、平成3年に67歳で亡くなられた優れた書家で詩人の、相田みつをさんの「いのちの根」という詩をご存知でしょうか。「なみだをこらえて かなしみにたえるとき ぐちをいわずに くるしみにたえるとき  いいわけをしないで だまって批判にたえるとき いかりをおさえて じっと屈辱にたえるとき あなたの眼のいろが ふかくなり いのちの根が ふかくなる」という詩であります。私たちがマイナス言葉を口にせず、苦しみや悲しみに耐えて神に眼を向ける時、私たちの心は黙々と深く深く根をおろし、その根が神が待っておられる地下の水脈にまで達すると、全能の神の神秘な力が、私たちの内に働き出すのではないでしょうか。


  しかし主は本日の福音の最後に、人の子が再臨する時、この地上にそのような信仰者を見出すであろうか、というような疑問のお言葉を残しておられます。一年前に始まった信仰年は今年の11月下旬で終わりますが、私たちが神から頂戴した信仰が、神が待っておられる心の底の水脈にまでその根を伸ばしているかどうかを反省し、これからも神の御旨によって与えられる日々の労苦や病苦、思わぬ失敗・誤解・やり直しなどを快く受け止め、苦しみによって心の根を神がおられる心の奥底の水脈にまで伸ばすように心がけましょう。ある聖人は、「苦しみは、神が私たちに恵みを与える第八の秘跡である」と言ったそうですが、この言葉も心に銘記して、日々与えられる数々の苦しみ・失敗等々を積極的に受け止め、喜んで耐え忍び、神にお捧げするよう心がけましょう。