2016年11月6日日曜日

説教集C2013年:2013年間第32主日(三ケ日で)

第1朗読 マカバイ記二 7章1~2、9~14節
第2朗読 テサロニケの信徒への手紙二 2章16~3章5節
福音朗読 ルカによる福音書 20章27~38節


  本日の第一朗読は、ユダヤがシリアのセレウコス王朝の支配下にあった紀元前2世紀の中頃に、シリア王アンティオコス四世が、国民の団結を宗教によって固めるため、ユダヤ人にもギリシャ人の神々を拝ませようとして生じた迫害と殉教について述べています。国家権力によるこのような宗教迫害は、歴史上度々発生していましたが、最近のグローバル時代にはごく限られた地域で一時的に発生するだけで、迫害される民衆の実情や要求もマスコミによって国際的に明らかにされ、迫害する国家権力に対しては強力な諸外国がすぐに反発するので、国家による残酷な人民迫害はもう定着できない、と申してよいと思います。しかし、国家権力だけではなく、大小全ての共同体の指導力が、極度の自由主義やマスコミなどによって弱体化して来ている現代には、いじめや詐欺など民間の私的な迫害や搾取などが激増しているのではないでしょうか。
  30年程前の1980年代の前半からわが国では各地で「いのちの電話」協会が次々と設立されて、増え続けていた、自殺を考えて煩悶する人たちの悩みに伴うことに努めていますが、1997年から14年間は全国で、毎年3万人以上も自殺しています。幸いその数値は昨年3万人を下回りましたが、しかし、「いのちの電話」協会への電話相談の数は増え続けており、その原因の大半が家族問題や対人問題ではなく、自分の人生に生き甲斐が感じられず、夜も眠れないなどの個人的精神問題のようです。察するに、その人たちの心の悩みを解消するには理知的な人生観は無力で、何よりも神秘な神の働きや助けを実際に体験させることが、その人の奥底の心を目覚めさせ、新しい生き甲斐を見出させるのではないでしょうか。私は二十世紀の末期から急増しているこれらの多くの人の心の絶望現象の背後には、聖書に世の終わりに多くなるとされている反キリストや小さな悪霊たちが策動しているのではないかと考えています。如何なものでしょうか。その悪霊たちは、密かに私たちの心の中にまでも入り込むことができます。自分の心の動きにも警戒し、幼子の素直な心でひたすら神の御旨に従って生きようと心がけましょう。
  本日の第二朗読は、使徒パウロがコリントからテサロニケの信徒団に書き送った第二の書簡であります。第一の書簡の中でパウロはテサロニケ信徒団の信仰心を高く評価していますが、この第二書簡では、迫害を受けながらもその苦しみに耐えて信仰を堅持しているテサロニケの信徒団に感謝と喜びを表明しつつ、まず主キリストの再臨と神の審判について語っています。続く書簡の後半部分で、神による選びを感謝し、神が信仰に生きるテサロニケの信徒たちの心を励まし強めて下さるようにと祈り、宣教する自分たちも悪者たちから護られるよう祈って欲しいと願っています。そして最後に宣教する自分たちの模範に見習って、正当な教えに従わない兄弟たちを遠ざけ、交際しないようにと警告しています。本日の朗読個所は、書簡のこの後半部分からの引用であります。
  そこに読まれる「全ての人に信仰がある訳ではないのです」の言葉は、世界中の様々な思想がマスコミによって紹介されたり宣伝されたりしている、現代社会に生活する私たちにとっても大切だと思います。現代人が生活を便利に楽しくするために次々と産み出す利己的快楽主義的発想を、マスコミを介してそのまま鵜呑みにして心の中に入れていますと、全てを自分中心・人間中心に考えて評価したり行動したりする「古いアダム」の精神が、知らない内に心全体を支配するようになって来ます。そして私たちの日常生活に密かに伴って時折そっと呼びかけて下さる神の御声を聞き取れなくして行きます。気を付けましょう。信仰の恵みに浴し洗礼を受けた私たちは、洗礼のとき神に約束したように、自分中心・人間中心の「古いアダム」の精神に死んで、神の御旨中心の主キリストの精神で生活するよう召されています。主キリストの精神で生きるには、心の中まで世俗化するこの世中心の精神や価値観などを、主キリストの価値観で絶えず浄化する戦いが必要です。主キリストと一致しその力によってこの戦いに勝ち抜いた人が、あの世で神から勝利の栄冠を受けるのであり、そこに私たちの受けた命の本当の意義も喜びもあるのです。信仰年の終わりを間近にして、このことを改めて心で深く悟り、確信するよう神に恵みを願いましょう。使徒パウロも本日の朗読の中で、「どうか主が、あなた方に神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせて下さるように」と祈っています。
  本日の福音は、私たち人間が神から受けた命の賜物についても教えていると思います。ルカ福音書にサドカイ派が登場するのはこの個所だけですが、ユダヤ教の大祭司を中心とするこの一派は、ヘロデ大王によってエルサレム神殿が大理石で大きく美しく増改築されたり、ローマ帝国の支配下で平和が国際的に長く継続し、商工業も国際的に大きく発展したりすると、世界各地から大勢の巡礼者や国際貿易商たちが神殿に来て祈り、多額の寄付をするようになったので、神殿のその上がりを殆ど独占して豊かになっていました。それでキリスト時代には、富裕な貴族たちのような生活を営んでいたと思われます。武力を殆ど持たない彼らは、その豊かな収入と生活を継続するため、強大な武力と国際的なローマ法で社会を平和にまた豊かに発展させてくれているローマの権力との繋がりを重視していましたが、この豊かさと世俗との関わりの中で、彼らの心は次第に神から離れ、急速に世俗化して行ったのではないでしょうか。モーセ五書だけを聖書の正典としてそれ以外のものを聖書と認めていないサドカイ派は、神も宗教も全てをこの世での生活中心に考え、本日の福音にもあるように、旧約聖書の預言書や文学書などにそれとなく語られている人間の復活、あの世での復活はないと信じていました。

   彼らが、復活はあると主張するファリサイ派の学者たちを困らせるために持ち出していたのが、本日の福音に登場するモーセの定めた「レビラト婚」の規定でした。これは申命記25章に述べられている規則で、先祖の家名をメシア時代にまで存続させ、土地財産が人手に渡るのを防ぐ目的で定められたようです。しかし、この世のこの規定をあの世で復活した人たちにまで広げると、この世で数人の男たちの妻となった女は復活の時誰の妻になるのか、という不合理が生じて来ます。あの世に行ったことのないファリサイ派の律法学士たちは、サドカイ派の持ち出すこの不合理に答えることができずにいました。それで主イエスにもこの問題を突き付けて困らせようと思ったようで、サドカイ派の数人が近づいて来て、主を「ラビ」と呼んで尋ねました。あの世からお出でになった主はそれに対してすぐに、この世の子らは結婚するが、あの世に復活する人たちは結婚せず、死ぬこともない。皆天使たちのようになる。神の子とされるのだからとお答えになり、ついでに、サドカイ派が聖書として大切にしている出エジプト記のモーセの話の中にも、この世の死者があの世に復活することが暗示されていること示すために、モーセが主を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼んでいる、と聖書の言葉を引用なさいました。私はローマにいた時、このように呼んでいることがどうして復活の証しになるのか、と知人の聖書学者に質問したことがありましたが、ヘブライ語ではこのような場合、「アブラハムの神である主」という風に、現在形の「である」という動詞が省かれていると理解され、遠の昔に死んだ太祖たちが、あの世では今も主を神として生きているという意味になるのだそうです。主のこのお言葉は、そこにいた人々皆にそのように理解されたようで、本日の朗読では省かれていますが、ルカ福音書ではすぐに続けて、「律法学者のある者たちが口を開いて、『先生、立派なお答えです』と言った。彼らはもはや、あえて何も尋ねようとはしなかった」とあります。主がサドカイ派の人たちに最後におっしゃった「神は死んだ者の神ではなく、全ての人は神によって生きている」というお言葉も、忘れてならないと思います。私たちはあの世に移ってからだけではなく、この世においても自分の力によってではなく、根本的に絶えず神の力によって存在し、神の力によって生かされている存在だと思います。この真理をしっかりと心に銘記し、神から自分に与えられた命を大切にしながら、感謝と愛の精神で、神の御期待に少しでもよく応えるように心掛けましょう