2013年10月13日日曜日

説教集C年:2010年間第28主日(三ケ日)



朗読聖書 
. 列王記 5: 14~17.  
. テモテ後 2: 8~13.
. ルカ福音書 17: 11~19.

   本日の第一朗読である列王記によりますと、シリア王の軍司令官ナアマンは、サマリアにいる預言者に重い皮膚病を癒してもらうため、銀10タラント、金6千シケル、晴れ着の服10着など高額の贈り物を携え、数頭の馬や多くの随員を連れて神の人エリシャの所へやって来ましたが、預言者は戸口に立つ彼を出迎えようとはせず、取り次いだ下男を介して「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば体は元に戻り、清くなります」と言わせました。世間一般の儀礼を無視したこのぶっきらぼうの言葉に驚き気を悪くしたナアマンは、始めはその言葉に素直に従おうとしませんでした。しかし、その時家来の者たちから、「あの預言者がもっと大変なことを命じたとしても、あなたはその通りなしたでしょうに。ヨルダン川で洗えば清くなると命じただけなのですから」と諭されて思い直し、預言者の言葉を信じてヨルダン川の水に七度身を洗いました。すると、病は癒され小さな子供の体のように清くなりました。それでナアマンが随員全員と共に神の人の所に引き返し、真の神を信奉するようになったというのが、本日の第一朗読の話です。キリスト教の神は私たちから、修験道の行者たちがなしているような難行苦行や、数十日も続ける断食などを求めておられるのではありません。神のお言葉を信じそれに謙虚に従おうとする心を、誰にでもできるような簡単な実践によって表明することを求めておられるだけなのです。罪に穢れている俗世間の価値観や、この世の幸せ第一の精神を脱ぎ捨て、何よりもあの世の神のお言葉に徹底的に従って生きようとする、神中心の価値観と博愛の精神とを、小さな実践によって表明することを求めておられるのです。その心のある所に神の救う力が働き、悩み苦しむ私たちを癒し、守り、導いて、周辺の人々や社会にも、その救いの恵みを与えて下さるのです。神からのこのようなお求めを、最初のナアマンのようにこの世的尺度で誤解しないよう気を付けましょう。

   本日の第二朗読は、使徒パウロが愛弟子のテモテ司教に宛てた二つ目の書簡からの引用ですが、「この福音のために私は苦しみを受け、遂に犯罪人のように鎖に繋がれています」とある言葉から察しますと、紀元61, 2年頃にローマで番兵一人をつけられ、自費で借りた家に丸二年間住むことを許されていた時の書簡ではなく、ネロ皇帝によるキリスト者迫害により、67年頃に投獄されて殉教を目前にしていた時に書かれた書簡であると思います。従って、この書簡は使徒パウロの遺言のような性格のものだと思います。「神の言葉は繋がれていません。だから、私は選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らも、キリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです」という言葉から察しますと、パウロは一緒に投獄されている人たちや獄吏や牢獄を訪れる人たちにも、最後までキリストによる救いと永遠の栄光を受ける希望とを説いていたのではないでしょうか。「私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。云々」の言葉は、殉教を目前にして、その牢獄で説いた福音の要約であると思われます。

   本日の福音は、主キリストによるハンセン病者たちの癒しについての話ですが、ナアマンを癒したエリシャと同様、主はここでも遠く離れた所から命令を与えただけで、その命令にすぐ素直に従った10人の病者たちを、祭司たちの所へ行く途中で癒されました。しかし、自分の体が癒されたのを見て、大声で神を賛美しながら主の所に戻って来、主の足元にひれ伏し感謝したのは、サマリア人一人だけでした。それで主は、「清くされたのは十人ではなかったか。他の九人はどこにいるのか。この外国人の他に、神を賛美するために戻って来た者はいないのか」とおっしゃいました。他の九人は、ユダヤ人だったのでしょうか。としますと、ファリサイ派が活躍していた当時のユダヤ社会では、この世で不幸を避け幸せになるためにも律法の厳守が異常なほど強調されており、ユダヤ人は皆子供の時から頭にそのことを叩き込まれていましたから、癒されたユダヤ人たちは、社会復帰が認められたら、今後は律法を守って幸せに暮らそうなどという、自分個人の嬉しい社会復帰と生活のことで頭がいっぱいで、恩人のイエスや神に感謝することなどは二の次とされ、心に思い浮かばなかったのかも知れません。ファリサイ派の宗教教育では、神は無限に清い存在で、罪に穢れているこの世からは遥かに遠く離れておられる方であるかのように教えられていたでしょうから。しかし、これは人間が勝手に作り上げて広めたこの世中心の思想で、神は、特に主キリストの来臨によって、私たちの想像を絶するほど私たちの身近に隠れて現存し、苦しんでいる人たちを救おう、助け導こうとしておられるのです。何よりもその神の愛と働きに心の眼を向け、感謝の心で生活するよう心がけましょう。

   主は神を賛美しながら感謝するために戻って来たサマリア人に、「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」とおっしゃいましたが、このサマリア人は律法のことは知らないので、ただ現実生活の中での神の働きや導きに心の眼を向けていたのではないでしょうか。本日の福音には「その中の一人は、自分が癒されたのを知って」と邦訳されていますが、ギリシャ語原文では「癒されたのを見て」となっており、この「見て」という動詞には、単に肉眼で見るブレポーという言葉ではなく、心の眼で洞察するという意味のエイドンという言葉が使われています。目に見えない神の臨在や導きなどを心で鋭敏に感知したり洞察したりする時に、聖書で用いられることの多いこのエイドンという動詞を忘れずに、私たちも神の現存や働きに対する心の眼、心のセンスを磨くよう心がけましょう。私たちが日々無意識のうちにそれとなく体験している、隠れている神の働きやお助けなどは、自分の都合や計画、あるいはこの世の規則や慣習などに囚われていては、いつまでも観ることができません。平凡に見える日常体験の中にあって、何よりも小さな事の中で示される神の愛の保護や助け・導きなどに、信仰と感謝の眼を向けるよう心がけましょう。それが、神が全ての人から求めておられる信仰であると思います。「あなたの信仰があなたを救ったのです」という主のお言葉から、これらのことをしっかりと学んで日々実践しつつ、神の望んでおられる新約時代の信仰の生き方を体得するよう努めましょう。日々私たちの出遭う小さな失敗や苦しみ、小さな誤解や他者からの願い事、それらの中に神の現存や御望みを感知し、相応しく受け止めることが大切だと思います。そこに神の祝福が隠されているのですから。