2013年10月6日日曜日

説教集C年:2010年間第27主日(三ケ日)



朗読聖書: 
. ハバクク 1: 2~3, 2: 2~4. 
 . テモテ後 1: 6~8, 13~14. 
 . ルカ福音書 17: 5~10.

    本日の第一朗読の前半は、紀元前600年頃、ユダ王国がバビロニアに滅ぼされる直前頃に活躍した預言者ハバククの祈りですが、当時ユダ王国末期の国情は絶望的であったようです。それで預言者は神に助けを求め、叫ぶようにして声高く祈っていたようですが、神はなかなかその祈りを聞き入れて下さらず、却ってその贅沢な社会に迫りつつある様々の災いを、幻の中で預言者に見せておられたようです。

    それが第一朗読の前半ですが、預言者のその嘆きの祈りに続いて、神が「見よ、私はカルデア人を興す。それは冷酷で剽悍な国民。云々」とバビロニアによるユダ王国侵略について詳しく啓示なされたかなり長い話は省略され、後半部分は第2章の始めからの引用になっています。ユダ王国滅亡の啓示を受けた預言者は、第1章の終りに、「主よ、あなたは永遠の昔からわが神、わが聖なる方ではありませんか。….それなのになぜ」と言って、神の民の祈りに応えて助けて下さらない神に、一層激しく嘆きます。それに対する神の答えが、この後半部分なのです。人がどれ程熱心に願っても、神がちっとも助けて下さらないと、ふと、神はもうこの世の政治も社会も見捨てて、ただ罪に汚れた人間社会の成り行きに任せておられるのではないか、などという考えも心に過()ぎります。それは、本当に苦しい試練の時です。神は私たちの信仰を一層深め固めるために、時としてそのような苦しい試練を私たちに体験させるのです。現代文明の大きな豊かさの中に生活している私たちにも、将来そのような試練の時が来るかも知れません。

    その時に人間中心・自分中心の立場から抜け出て、神の御旨中心の主キリストの立場に立って、神の強い保護と導きを受けることができるように、今から覚悟を堅め、日々神と共に生活するよう心がけましょう。信仰とは、そういう不安定要素の溢れているこの世の動きが、どこまでも神の支配下にあると信じて生きることであり、しかも神のその支配が、私たちに対する神の愛に根ざすものであると確信して生きることだと思います。預言者はこの世の現実に目を据えて「なぜ」と問いかけましたが、この世の現実からは問題の解決は見出せません。ただ神の僕・婢として、神のお言葉をそのまま素直に受け止め、黙々とそれに従って行くところからしか解決が与えられないのです。私たちが神の御旨に全面的に従おうとする時、その徹底的信頼とお任せの姿勢を待っておられた神が、働いて下さるのです。ですから本日の第一朗読の最後にも、「神に従う人は信仰によって生きる」とあります。この信仰は、神に対する「信頼」を意味していると思います。頭で神の存在とその啓示の真理を信じているだけでは足りません。それは、地獄の悪魔も数々の嫌な体験から確信していると思います。そんな理知的な信仰ではなく、神の僕・婢として神の御旨にひたすら従順に従おう、全てを神に委ねて愛と信頼の内に清貧に生きようとする信仰心の成長強化を求めて、神は私たちに度々厳しい試練をお与え下さるのだと信じます。その苦しい試練を、嫌がらないように致しましょう。

    本日の第二朗読のはじめには、「私が手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物」という言葉が読まれますが、これは叙階の秘跡によってテモテ司教に授与された神の賜物と、それに伴う神からの使命とを指していると思います。それは叙階式の時にだけ注がれる一時的な恵みではなく、その時霊魂の奥底に湧出した内的泉のように、その後も魂の奥に継続して続いている泉のような賜物であります。ですから使徒パウロは、その賜物を「再び燃え立たせるように」と強く勧めているのです。実は、私たちの受けている洗礼の秘跡も、堅信の秘跡も、私たちの霊魂の奥底にそれぞれそのような恒久的賜物を授与する秘跡であります。私たちも皆、神から洗礼の恵みの泉を、また堅信の秘跡による聖霊の愛の泉を霊魂の奥底に頂戴しているのです。日々その泉に心の眼を向けてそこから力と導きを受けつつ、自分に与えられている神からの使命に生きるよう心がけましょう。それが、新約時代の人たちに神から求められている、「信仰によって生きる」生き方だと思います。

    本日の福音には、弟子たちが「私たちの信仰を増して下さい」と願ったら、主は、「もしあなた方に芥子種一粒ほどの信仰があれば、云々」とお答えになったとあります。皆さまは芥子種を見たことがあるでしょうか。私は三十数年前の秋に聖地を訪れ、カイザリアの港湾の近くに見つけた芥子種の木からその種を少し貰ってきて、日本でいろいろの人たちに分け与え、あちこちで芥子の木を芽生えさせたことがありますが、その種はあまりにも小さくて、落としたら小さなピンセットで掴むこともできませんでした。本当に小さな小さな黒い一点でしたから。無に等しいと言ってもよいでしょう。主は、弟子たちを失望させたくないからでしょうか、端的にあなた方には「まだ本当の信仰がない」とは話されませでしたが、しかし主のお言葉から察しますと、時々誰が偉いかどちらが上かなどの争い事もしていた当時の弟子たちの内には、神がお求めになっておられる本当の信仰は、まだ芥子種一粒ほどもないという意味でも、このように話されたのだと思います。

    では神のお求めになっておられる信仰とは、どのような信仰でしょうか。それは、各人が自分で主導権を取って自由に行使するような、いわば自力で獲得する能力のような信仰ではないと思います。自分の主導権も自由も全く神にお献げし、神の御旨のままに神の僕・婢として生きよう、神に対する徹底的従順と信頼のうちに生きようとしている人の信仰だと思います。全能の神は、我なしのそのような人の内に自由にお働きになるので、そのような人は次々と神の不思議な働きを体験するようになります。自分の所有する能力で、神の助けを祈り求めつつ何かの奇跡的成功を獲得するのではありません。神が御自身が、その人の内に働いて下さるのです。

    本日の福音の後半も、私たちの持つべきその真の信仰について教えています。神の僕・婢として神の御旨中心に生活している人は、一日中働いて疲れきって帰宅しても、その報酬などは求めようとせず、主人が夕食をお望みなら、すぐに腰に帯を締めてその準備をし、主人に給仕をします。わが国でも昔の農家のお嫁さんたちは、皆このようにして家族皆に奉仕していました。我なしの家族愛の奉仕なのですから、仕事を全部なし終えても、報酬などはさらさら念頭にありません。命じられたことを無事なし終えた喜びだけです。神の御旨へのこの徹底的無料奉仕の愛、それが私たちの持つべき真の信仰心なのではないでしょうか。今の社会では、何事も金銭的儲けで評価する価値観が広まっていますが、外の社会の価値観を家庭の中に持ち込んではならないと思います。社会の地盤である家庭は心の訓練道場であり、いわば心の宗教的奉仕的愛の道場であると思います。私たちの修道的家庭も、そういう道場であります。家庭的無料奉仕の愛をパイプラインとして、神がその恵みを私たちの上に、また社会の上に豊かに注いで下さるのです。私たちが今後も永く、こういう信仰と愛の奉仕に生きる恵みを願い求めて、本日のミサ聖祭を献げましょう。