2015年9月6日日曜日

説教集B2012年:2012年間第23主日(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 35章4~7a節第2朗読 ヤコブの手紙 2章1~5節福音朗読 マルコによる福音書 7章31~3節


   本日の第一朗読には、「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる」という預言者の言葉が読まれますが、心の教育が大きく乱れて立ち遅れているため、現代世界にはかつてなかった程の規模で犯罪が多発したり、それが国際的に普及したりしているようです。昔の保守的ドイツ人宣教師たちの感化を受けて育った私は、これ程多くの異常な犯罪発生の背後には、無数の悪魔が策動しているのではないかと考えています。恐ろしい犯罪や各種の悲惨なテロ事件は、これからも多発し続けるかも知れません。神がお創りになった大自然界の大小全ての能力や可能性を次々と発見し、人間中心に利用することに意欲的であった現代文明社会の地盤は最近液状化現象を起こし、神を無視する社会の地盤に潜んでいたものが続々と表面に現れて来るからです。そこに地球温暖化が進むと、今の私たちには想像できない程の深刻な自然災害が、これからの人類社会を絶望的状態に追い込むかも知れません。

   余談になりますが、ちょうど百年前の1912年に東京神田の下町で職人の家に生れた福田恒存という人は、そこで身に着いた職人気質と庶民の良識を大切にし、東大で英文学を学ぶと「生の哲学」に関心を寄せて、人間の非合理的な生命の力を直視し、当時の知識人たちの論理的な発想や考えにはいつも批判的であったそうです。それで戦争中は、戦争指導者やその政治にすり寄る知識人たちを嫌い、東大出ではありましたが社会の要職に着こうとせずに、自宅の庭で防空壕掘りなどをしていたそうです。そして戦後は劇団「雲」や「襷」を統率し、劇作家・評論家として目覚ましい活躍をしています。この福田恒存は、日本人庶民の伝統的良識の立場から、西洋文化にかぶれた知識人たちの人間理性中心論理の不完全性を鋭く批判して退け、絶対者の働きや導きに従う心と、人間の自主的努力との両方をバランスよく生かす生き方を説いています。それはちょうど旧約時代の預言者たちが、その時代の社会に流行していた人間的思考の立場でだけものを考えずに、歴史を支配し統合しておられる神の御摂理にも同時に心を向けながら、物事を判断しようとしていたのに似ていると思います。想定外の不穏な事件や災害が次々と発生すると思われるこれからの時代に賢明に生きるにも、江戸庶民の伝統的良識に根ざした、福田恒存のバランスの取れた両面的考え方、生き方が必要なのではないでしょうか。

   前述した、預言者を介して語られた神のお言葉を心に銘記し、どんな事態をも恐れずに、雄々しく生き抜く心を堅めていましょう。この世の社会や生活が不安で危険になればなる程ますます真剣に神に縋り、神に信頼と希望をもって祈るよう努めましょう。社会を内的に堕落させるような恐ろしい嵐に抵抗することは誰にとっても嫌ですが、嫌がって逃げ腰になっていると悪の勢力につけ込む隙を与えます。神の力に頼って雄々しく立ち向かおうとすると、神から私たち各人の心の奥底に与えられている本当の勇気が、目覚めて働き出します。神はそのような勇気と信仰と希望を堅持している人たちをご覧になると、その人たちを介して力強く働いて下さいます。神の御言葉に対するこの信仰を堅持して、前向きに希望をもって力強く生き抜きましょう。


   本日の第二朗読はヤコブ書からの引用ですが、ヤコブ書の122節には「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけの人になってはなりません」という言葉があり、これがヤコブ書全体のテーマになっている、と申しても過言ではないと思います。本日の朗読箇所も一つの具体例をあげて、人をその外的服装などから差別扱いをしないよう、厳しく警告しています。神が私たちから求めておられるのは、福音の御言葉を受け入れて心に保つだけではなく、その御言葉に従って生きる実践であります。種蒔きの譬え話から明らかなように、主の御言葉は種であります。その種が心の畑に根を張って、豊かな実を結ぶようにする実践が何よりも大切だと思います。しかし、ここで気をつけたいことがあります。それは、私たちが主導権を取り自分の考えや望みに従って、その種に実を結ばせようとしてはならない、ということです。使徒パウロはコリント前書3章に、「私は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させて下さったのは神です」と書いています。神がなさる救いの御業に協力し仕える姿勢を堅持しながら、人々の心の中での神の働き、神の命の御言葉の成長に下から奉仕し、温かい心でその豊かな実りを祈り求める実践に励みましょう。