2015年8月30日日曜日

説教集B2012年:2012年間第22主日(三ケ日)

第1朗読 申命記 4章1~2、6~8節
第2朗読 ヤコブの手紙 1章17~18、21b~22、27節
福音朗読 マルコによる福音書 7章1~8、14~15、21~23節


   本日の第一朗読には、モーセが神の民に向かって「イスラエルよ、今私が教える掟と法を忠実に行いなさい」という言葉で始まる後半部分に、「そうすれば、諸国の民にあなた方の知恵と良識が示され、彼らは、(中略)この大いなる国民は確かに知恵があり、賢明な民であると言うであろう。いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、主のような神を持つ大いなる国民がどこにあるだろうか」と話しています。人間は神から優れた理解力、自分で考え出す能力を与えられていますが、その心は原罪によって神から離れ、神のように自分中心に生きようとする強い傾きを奥底に宿しているために、神の御旨に反する望みを抱いたり、考えの違う人たちとの対立や争い事に生きたりもします。無数の人たちの知恵や歴史的体験が山ほど蓄積されて来ている現代世界においても、有り余る情報や知識の流れの中で、自分中心の不賢明な行為や生き方をしている人たちが少なくありません。宇宙万物の創造主であられる神の御旨に、感謝をもって従おうとしないからだと思います。何よりも神の御旨に従おう、神の掟を守ろうとする人の中では神が働いて下さり、その人が神の力に生かされて知恵と良識に富む人間に成長することを、モーセは長年の人生体験から確信していたのではないでしょうか。

   モーセがその話の中で、「あなたたちは私が命じる言葉に、何一つ加えることも減らすこともしてはならない。私が命じる通りにあなたたちの神、主の戒めを守りなさい」と命じていることは、注目に値します。神はモーセを通して、神の言葉に対する徹底的従順を求めておられるのではないでしょうか。神のために何か善業をしようという心で、何かの事業を企画したり、人々にもしきりに寄付を呼びかけたりしている人を見ることがありますが、その熱心には敬意を表しても、それが果たして神の御旨なのかどうかについては、少し距離を置いて慎重に吟味してみる必要があります。いくら善意からであっても、神の掟や神の言葉に、人間のこの世的考えや望みから何かを加えることは、神のお望みに反することになり兼ねないからです。例えば2千年前頃にユダヤ人庶民の宗教教育を担当していたファリサイ派の教師たちは、善意からではありますが、神から約束されている偉大な王メシアが間もなくユダヤのベトレヘムから出現して、ユダヤ民族を栄光の世界支配に導いて下さると信じ、そのような現世的メシア像の夢を民衆の間に広めていました。それで、神から派遣されたそのメシアが、ユダヤ人たちから軽蔑されていたガリラヤの下層民から頭角を現し、この世の軍事的権力などは持とうとせずに、何よりも神の御旨に従おうとする新しい預言者的信仰を説き、その教えを広め始めますと、この人が果たして神よりのメシアなのかと戸惑い、絶えず監視し迷いながらも、ファリサイ派の多くは最後には自分たちの広めて来た伝統的教えを優先して、その預言者精神のメシアをユダヤ民族の将来に大きな危険を齎す偽りのメシアとして断罪した大祭司たちの意見に賛同してしまいました。

   私たちの生活している現代世界も、2千年前のオリエント・地中海世界のように、いやそれよりも遥かに大規模に人類史の大きな変動期にあると思います。2千年前のユダヤでは、ギリシャ・ローマ文明の発達普及で商工業や国際貿易が盛んになり、社会が豊かになって人口移動が激しくなったため、多くの若者たちが、古い堅苦しい伝統からは自由になって新しく考え、新しい生き方に憧れる傾向が強かったようです。そのことは福音書にも、主がお語りになった幾つかの譬え話の中にも反映しています。伝統的社会や家族の絆が内部から緩むこういう過渡期には、神も全く新しい働き方をなさいますので、何よりも神なる御父の新しい御旨をたずね求め、それに従って生きようとする預言者的信仰心が大切になります。伝統的社会や教会や家族の絆が大きく緩み崩壊し始めている現代も同様ではないでしょうか。主イエスの模範や多くの聖人たちの模範に倣って、祈りの内に神の霊の働きに対する心の感覚を磨き深める、預言者的生き方に心がけましょう。そうすれば、個々の具体的な事柄について、神の霊が私たちの判断を照らし導いて下さいます。時にはすぐに判断できず、長く待たされることがあるとしても。

   使徒ヤコブは本日の第二朗読に、「心に植え付けられた(神の)御言葉は、あなた方の魂を救うことができます。御言葉を行う人になりなさい。聞くだけで終わる者になってはなりません」と勧めていますが、この言葉も大切だと思います。神から戴いた御言葉を頭で理解するだけの信仰、いわば頭の信仰に留まっていてはなりません。日常茶飯事の中のごく平凡な人間的行為や小さな奉仕などを、温かい親心をもって隠れた所から私たちを見ておられる天の御父に心の眼を向けながら、実行してみましょう。天の御父は、神現存の信仰の内になす、そのような小さな事を特別の関心を持ってちゃんと見ておられるように思います。私は数多くの小さな体験から、そのように信じています。主イエスも一度天の御父について、「あなた方の髪の毛までも一本残らず数えられている」(マタイ10:30)と話されましたが、全能の神は実際にそれ程行き届いた御心で私たち人間の生活に伴っておられるのではないでしょうか。欠点多い私たちは、時々小さな失敗や小さな不安に心を腐らすこともありますが、その時すぐに愛する神に心を向け、その失敗や不安をお献げ致しましょう。それは、神が特別にお喜びになる行為であり祈りであると思います。神がその小さな失敗や不安を道具にして、不思議に良い結果が生ずるよう働いて下さるのを体験しますから。


   主イエスは山上の説教の中で、「まず、神の国とその御旨を行う生活を求めなさい。そうすれば、これらのものも皆、あなた方に加え与えられるであろう。だから、明日のことを思い煩ってはならない」と話されましたが、ここに言われている「神の国」は、どこか遠くにある神の王国のようなものを意味しているのではなく、私たちの心の中での神の支配、神の働きを意味していると思います。ギリシャ語のバジレイアという言葉には、「国」という意味と「支配」という意味の両方がありますから。自分の奥底の心を自分が支配するのではなく、神が支配して下さるよう実践的に願い求めましょう。そうすれば神は私たちのこの欠点多い心を道具として使って下さり、必要なものは何でも次々と与えて下さるのを体験するようになります。幼子のように素直な心で主の御言葉を信じ、その信仰を日々実践的に表明するよう心がけましょう。