2015年6月28日日曜日

説教集B2012年:2012年間第13主日(三ケ日)

第1朗読 知恵の書 1章13~15、2章23~24節
第2朗読 コリントの信徒への手紙二 8章7、9、13~15節
福音朗読 マルコによる福音書 5章21~43節

   本日の第一朗読には、神は「生かすためにこそ万物をお創りになった」のであって、「命あるものの滅びは」喜ばれません。「滅びをもたらす毒はその中にはなく、」「悪魔のねたみによってこの世に」入って来たのです。ですから、神が「ご自身の本性の似姿として」「不滅な存在として」創造して下さった人間は、その悪魔に抵抗し続けるなら、神と共に永遠に幸せに生きることができますが、悪魔の仲間に属する者になるなら、死を味わうに至るのです、というような旧約時代のユダヤ人たちの人間観が述べられています。その悪魔は極度に多様化し流動化しつつある現代の文明社会の中でも活躍し、多くの人の心を滅びへと導いていると思われます。使徒ヨハネの第一書簡の2章には、主キリストが来臨なさってからの末の世には、反キリストが大勢現れるように述べられているからです。最近の世界情勢は、既にその末の世に入っていることを私たちに示しているのではないでしょうか。私たち被造物に対する神の愛を信じつつ、神に堅く結ばれて生き抜くよう心がけましょう。

   かつての私たちは、数十年間も消費主義的な生活の快適さを享受し、人間が自然を際限なく自由に利用できるかのように思い込んでいました。しかし、地球温暖化による地球規模の気候変動が拡大して来たからなのでしょうか、最近では世界各地で人間の力を遥かに凌ぐ大地震・津波・豪雨・洪水・竜巻などの自然災害が多発するようになり、2004年に大津波が東南アジアを襲撃した頃からは、米国を襲うハリケーンも巨大化して来ているようです。それで、人類総人口の増加や水資源の限界、並びに大森林の激減と砂漠化なども考慮し、将来の人類社会に対する絶望的観測が広まって来ているようです。例えば20093月にオーストラリア南東部で発生した大規模の森林火災は、これまでの自然界では考えられなかった程の異常災害だったようです。火災発生の3週間前には州都メルボルンで気温が46.6度を記録したそうですが、熱せられた強風が夜に風向きを変えると、メルボルン北東の林にある町々で大規模の火災が発生して、200人以上の人が逃げ遅れて命を落とし、数万ヘクタールもの森林が焼失して、無数の家畜や野生動物が焼け死んだそうです。私たちの生活を見守り支えてくれていた大自然界の変動が進むと、想定外のこういう災害は今後も次々と発生するかも知れません。それで一部の人たちは、万物を創造し歴史を導いておられると言われる愛の神はどこにおられるのか、罪のない無数の人々が死ぬのを黙認しておられるのかなどと、恨みの声を挙げているようですが、本日はこの事について少し考えてみましょう。

   私は時間空間の制約の下に置かれているこの世は、言わば過ぎ去る「試しの世」であって、私たちが神の愛に抱かれて永遠に幸せに生きるのは、あの世に行ってからと考えています。使徒パウロも、コリント前書15章に「自然の命の体として蒔かれ、霊的な体に復活する」などと書いていますから。この世の宇宙万物をお創りになった神は、ご自身に似せてお創りになった人間にだけではなく、その他の万物にもそれぞれ自分に与えられた能力に従って生きる大きな自律性を与えておられ、神の特別な愛の発動や神の御計画実現に必要でない限り、通常はなるべく干渉を控えておられるのではないでしょうか。神は被造物を愛して、創造の御業によって各被造物にお与えになった自律性と自由を尊重しておられるからだと思います。人祖の罪によってこの世の被造物界が神に背を向ける苦しみの世に成ってしまっても、神はすぐにその罪の穢れを取り除き、この世を相互愛と調和の世に造り変えようとはなさいません。各被造物が夫々の苦しみから何を学び、どのように苦闘しながら、神がお定めになった終局のあの世的幸せを目指して進むか否かを、じーっと黙して観察しておられるように見えます。神は創造の御業によって、各被造物に夫々その終局目的へと進む、自律的能力をお与えになったのですから。

   時満ちて、神は罪の穢れと不調和に悩むこの苦しみの世に、御独り子を人間として派遣なさいました。「見えない神の姿」(コロサイ1: 15)であられるこの主キリストが、人祖の罪を償い清めて被造物を贖い、終局のあの世的幸せへと救い上げるために。しかし、主の受難死によって人祖の罪は償われても、すぐにはこの世の苦しみや不調和が無くなりませんでした。神は私たち各人がその主キリストがこの世でお示しになった生き方に見習って、自分に与えられる状況や苦しみを受け止め、主と共に神の僕・婢として人祖の罪を償い、神の愛(聖霊)に導かれ生かされて、あの世の幸せへと自由に進むことをお望みのようです。私たちにはそのために必要な力も、神の愛の計らいも十分に与えられています。主は最後の晩餐の席でご自身の肉と血を食べ物・飲み物となして人類にお与えになり、ご自身を記念してこの真に神秘な秘跡を続けることを弟子たちとその後継者たちにお命じになりました。ということは、この秘跡が続けられる限り、あの世の命に復活なされた神の御子は、全く新たな霊的形でこの苦しみの世に受肉し、全ての被造物に呼びかけ、必要な導きと力を世の終りまで提供し続けておられると思われます。その主は、終末的様相が強まって悪霊たちの働きが激しくなると思われるこれからの時代には、これまで以上に私たちの近くに現存して、信仰をもって主に近づき主に助けを祈り求める私たちの歩みを、護り導いて下さると信じます。……


   本日の第二朗読には、「あなた方の現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなた方の欠乏を補うことになるのです」という言葉が読まれます。これは、使徒パウロの数々の体験から滲み出た確信であると思います。パウロはコリント後書4章に、「私たちは生きている間、イエスのために絶えず死に曝されています。死ぬ筈のこの身にイエスの命が現れるために。こうして私たちの内には死が働きますが、あなた方の内には命が働きます」などと書いています。パウロは、洗礼によって霊的に主キリストの体に組み入れられ、その一つ体の一部分・一肢体として戴いている私たちキリスト者は、この世の命に生きながら、内的には既に永遠に死ぬことのないあの世の主キリストの大きな命に包まれて、いわば主キリストを着物のように纏いながら生活しているのであり、その限りでは死に伴われて苦しむことの多い私たちのこの世の苦しみは、主キリストの受難死に参与して人類の他の部分で主のあの世の命を広めるのに大いに役立っている、と信じていたのではないでしょうか。新約の神の民の復活の主キリストの中での、このような内的生命的な連帯性は、現代に生きる私たちも大切にしたいと思います。