2015年6月14日日曜日

説教集B2012年:2012年間第11主日(三ケ日)

第1朗読 エゼキエル書 17章22~24節
第2朗読 コリントの信徒への手紙二 5章6~10節
福音朗読 マルコによる福音書 4章26~34節

   本日の第一朗読の著者エゼキエルは、バビロン捕囚の前頃にエルサレムにあって活躍した預言者エレミヤと同じ頃の人で、エレミヤと同様祭司の子であります。エレミヤはユダ王国の国王・祭司・預言者たちに向けて、度々神からの厳しい警告、恐ろしい予告を告げなければならなくて、王国の支配層から迫害され、投獄されたりもしましたが、それよりも少し若かったと思われるエゼキエルは、バビロン捕囚の時に一緒にバビロニアに連行され、バビロンの南東を流れる運河の一つと考えられるケバル川の畔りで、捕囚の人々と一緒にいた時に、神から最初の幻示を与えられ、それ以来数々の不思議な幻を見せられて、捕囚の民を励まし力づけた預言者であります。名前のエゼキエルも、「神強くする」という意味だそうです。

   本日の朗読個所であるエゼキエル書の17章には、まず二羽の大鷲と葡萄の木の譬えが語られています。最初に登場している大鷲はバビロンの王を指しているようです。この王はレバノンに飛来し、レバノン杉の梢の若い枝を折って、それを商業地に運び、豊かな水のほとりに柳のように植えたら、それは育って低く生い茂る葡萄の木となった。そしてその根を鷲のいる所の下に張り巡らせた。ところでもう一羽の大鷲もいて、この大鷲はエジプトのファラオを指しているようです。レバノン杉の若枝から成長した葡萄の木は、若枝を広げ蔓を伸ばし始めると、その根をこの第二の鷲の方へ伸ばし始めました。この時、主なる神はエゼキエルに、「語れ。この葡萄の木は成長するだろうか。その根は引き抜かれ、実はもぎ取られないだろうか。云々」と、最初の大鷲から第二の大鷲の方へ根を伸ばそうとする葡萄の木の将来について、否定的な疑問の投げかけます。これは、バビロン王の最初の襲撃に負けて当時の支配階級の多くがバビロンに連行されて捕囚の身となっていた頃、バビロンの属国とされてバビロン王によって新しくユダ国王にされたゼデキヤ王の時に、宮廷でエジプト王の援助を受けようとする動きが強まったことを指していると思います。それを知ったバビロン王は、数年後にもう一度エルサレムを攻略し、都は徹底的廃虚となってしまいましたが、17章の話は、その第二の襲撃の前に受けた幻示であると思います。

   この話の最後に神が語られた言葉が、本日の第一朗読であります。ここでは、高さ30mにもなるレバノン杉の生命力の逞しさが述べられています。神の民も目前の政治的駆け引きや経済的損得に囚われることなく、真の預言者エレミヤを介した語られた神の声に対する従順に徹して生きるなら、神の恵みと働きにより、やがてはレバノン杉のように逞しく生き始めることを示しているお言葉だと思います。しかし、当時のゼデキヤ王を囲む支配者たちは、預言者を通して語られた神の声に従わなかったために、エルサレムはへ滅ぼされ、廃虚と化してしまてました。現代のような大きな過渡期、終末の様相が濃くなる時代にも、主である神は高い木を低くし、低い木を高くする働き、また生き生きとした木を枯らしたり、枯れた木を茂らせたりする不思議をなさいます。最近のニュースを聞いていますと、目前の政治的駆け引きなどの話の多いのにうんざりしますが、人々の意見の多様化が進んで時代の趨勢が纏まり難い様相を呈する時にこそ、私たちが真剣に神に祈り、黙しておられる神の導きや働きに心の耳を傾け、それに信仰をもって従うことを、神は強く求めておられるのではないでしょうか。神は大きな沈黙の内にも、私たちの心に強く訴え、また求めておられるのだと信じます。2千数百年前の旧約の預言者時代の時のように。

   第二朗読の中で使徒パウロは、私たちは「体を住みかとしている限り、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです」と書いていますが、この世で肉の体の内に生きている限り、私たちはいつまでも主を直接に見ることができず、主から離れていることを知っています。しかし、主が近くに現存し私たちを見ておられることを信じつつ、その信仰の内に希望と喜びをもって歩むことはできます。使徒パウロは、この心強い信仰の内に日々を生きておられ、私たちもそのようにして、ひたすら主に喜ばれるように生きるよう、勧めているのではないでしょうか。私たちは皆間もなくこの世を去り、キリストの裁きの座の前に立って、この世で信仰を持って生きた度合いに応じて報いを受けることになっているからです。


   本日の福音では主が、私たちがこの世で蒔く種の成長と、芥子種の力強い生命力について教えておられます。土に種を蒔くのは人間ですが、その種に芽を出させ、生長させて実を結ばせるのは、人間ではなく神がなさるのです。その神の不思議な大きな愛の働きに信頼し協力するのが、私たち人間の為すべきことなのではないでしょうか。人間側の働きよりも神の働きに心の眼を向けながら、日々の働きを捧げるように心掛けましょう。本日のこの「聖書と典礼」には、芥子だねについて、「種は1~2ミリ程度だが」とありますが、芥子だねを実際に見たことのない人の言葉だと思います子。私が1970年代にイスラエルのカイザリア港町の廃虚に生えていた芥子の木の小さな実一つから集めた何百という芥子種は、いずれも0.3ミリくらいの大きさで、1ミリ大なら小さなピンセットで掴むことができるのですが、全然掴むことができませんでした。しかし、紙の上に取りわけて蒔いてみますと、芽を出して育ち始め、それをいろいろの希望者に与えて育ててもらいましたら、1m以上に育って黄色い花も咲かせましたが、日本の冬の寒さのため残念ながら皆枯れてしまいました。私はその花の写真も持っています。こんなに小さな種に込められている生命力の大きさに驚きました。私たちが神から頂戴している平凡に見える秘跡にも、驚くほど大きな力が込められているのではないでしょうか。大きな信仰と信頼の内に生活するよう心がけましょう。