2009年9月6日日曜日

説教集B年: 2006年9月10日、年間第23主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 35: 4~7a.   Ⅱ. ヤコブ 2: 1~5.  
  Ⅲ. マルコ福音 7: 31~37.


① 本日の第一朗読はイザヤ書35章からの引用ですが、この35章の前後には、紀元前8世紀後半のアッシリア襲来に脅かされている不安な政情下での話が多いのに、なぜかこの35章だけは、神によって敵の支配から解放され、喜びに溢れてエルサレムに戻って来る神の民についての話になっています。その最後の10節に、「主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて、喜び歌いつつシオンに帰り着く」とある言葉を読むと、これは前8世紀後半の第一イザヤが、バビロン捕囚から大きな希望と喜びのうちにエルサレムに帰還する、その百数十年後の神の民の喜びを予見して語ったものではないかと思われます。この世の事物現象は全て、神から創造された時間という枠内に置かれていますが、その時間を超越したあの世の神の世界では、この世での遠い将来や遠い過去の出来事も、今目前に行われているかのように観測できるのではないでしょうか。イザヤ預言者の魂は、そういうあの世の神の世界に迎え入れられて、アッシリアの恐怖からも救うことのできる力強い神の働きについての示しや幻を、見聞きしたのだと思われます。
② 急速に発達した現代文明について行けずに、心の教育が大きく立ち遅れているため、現代世界には未だかつてなかった程の規模で犯罪が多発したり、それが国際的に普及したりしているようですが、今は無き保守的ドイツ人宣教師たちの感化を受けて育った私は、その背後には無数の悪魔が勢力を結集して策動しているのではないかと考えています。恐ろしい犯罪や各種の悲惨なテロ事件は、これからもますます多く発生するかも知れません。現代世界の長引く内的地震にもまれて、これまでの社会の地盤が液状化現象を起こし、神を無視する社会の地盤に潜んでいたものが続々と表面に現れ出て来るからです。それに地球温暖化によって、今の私たちには想像できない程の深刻な災害が、多くの人を絶望的状態に追い込む事態も生ずるかも知れません。その時私たちも、本日の第一朗読に読まれる、「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる」という、神から布告するよう命じられた預言者の言葉を、忘れないように致しましょう。この世の社会も生活も不安で危険になればなる程、私たちはますます真剣に神に縋り、神に信頼と希望をもって祈るよう努めましょう。神はその信仰と希望を堅持している人を介して、働いて下さるからです。
③ 死を間近にした釈尊が、クシナガラ郊外の林の中で説かれた最後の教えの中には、「身を正し、心を正して悪を遠ざけ、常に無常を忘れてはならない」という言葉があるそうですが、人類社会の数千年来の伝統的価値観が根底から鳴動し崩れ去ると思われるような時には、この世のものへの執着を一切断ち切って、日頃から身も心も厳しく統御している平常心が大きな力を発揮すると思います。スポーツの選手は、何かに構えた心のない、普段通りのフリーな心でプレーすると良い成績をあげることを体験していますので、試合が近づくと「平常心」という言葉をよく口にします。それとは多少違うかも知れませんが、禅僧たちもよく「平常心是れ道なり」と言いつつ、日々一切のものから解放された自由な心の平安を保つことに努めています。それがそのまま悟りの道だと思います。私たちが神から召された道も、内的にはそれに非常に近い特性をもっています。一心にあの世の神の働きに縋り、それに導かれて生きようと励んでいる人は、ごく自然にこの世の過ぎ行く事物への執着から解放され、心の自由と平安を得るようになるからです。私たちはお互いに既に社会的定年というものを体験し、この世の社会のための人生からは解放された身ですから、これからはひたすら神の導きや働きに心の眼を注ぎつつ、そのような心の自由と平安を一層深く体得するよう心がけましょう。
④ 幕末の名古屋に生まれ、東京大学哲学科を卒業した後に、東京で真宗大学 (京都の大谷大学の前身) を創立した清沢満之という優れた仏僧がいますが、先日ある新聞に、その清沢満之が「人事を尽くして天命を待つ」という言葉を換えて、「天命に安んじて人事を尽くす」と書いているのを読み、私たちキリスト者にはこの言葉の方がぴったりだと思いました。阿弥陀仏崇敬の浄土宗門系仏教者たちはある意味で一神教的で、その言葉や生き方には私たちキリスト者にとって学ぶべきことが少なくありません。これからも心を大きく開いて、他宗教の信仰生活から学びたいと思います。
⑤ 本日の第二朗読はヤコブ書からの引用ですが、ヤコブ書の1章22節には「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけの人になってはなりません」という言葉があり、これがヤコブ書全体のテーマになっている、と言うことができます。本日の朗読箇所も一つの具体例をあげて、人をその外的服装などから差別扱いをしないよう、厳しく警告しています。神が私たちから求めておられるのは、福音の御言葉を受け入れて心に保つだけではなく、その御言葉に従って生きる実践であります。種蒔きの譬え話から明らかなように、主の御言葉は種であります。その種が心の畑に根を張って、豊かな実を結ぶようにする実践が何よりも大切だと思います。しかし、ここで気をつけたいことがあります。それは、私たちが主導権を取ってその種に実を結ばせようとしてはならない、ということです。使徒パウロはコリント前書3章に、「私は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させて下さったのは神です」と書いています。神がなさる救いの御業に仕える姿勢を堅持しながら、実践に励みましょう。「神はあえて世の貧しい人たちを選んで信仰に富ませ、ご自身を愛する者に約束された国を受け継ぐ者となさった」という第二朗読の言葉も忘れてはなりません。神の御言葉は貧しい人や病人の心にも、この世の社会では全く無能に見える人の心にも、根を下ろし実を結ぼうとしているのです。その御言葉に奉仕する温かい心を持つように致しましょう。
⑥ 本日の福音に読まれる治癒の奇跡を考察する前に、まずマルコ福音書でのこの奇跡の位置や意味づけについて考察してみましょう。聖書学者たちによると、マルコ福音の6:30 から7章の終りまでは一つのまとまりをなしており、それは人里離れた所でのパンの奇跡に始まって、主が夜に湖上を歩いて弟子たちの舟に来られた話や、ゲネサレトやフェニキアなどの異教徒の所でも、多くの人を奇跡的に癒した話が続き、これら一連の奇跡を目撃体験させた後の一つの纏めとして、ガリラヤ湖東方のデカポリス地方でなされた、特別の仕方による治癒の奇跡が報じられており、それが本日の福音となっています。なお、これら数多くの奇跡を弟子たちに目撃させる話の途中、7章の前半にはたぶんガリラヤで、食事の前に手を洗わない弟子たちに対するファリサイ派からの非難が挿入され、先週の日曜日の福音に述べられているように、主はその非難に対して、「人から出て来るものが人を穢すのである」と弟子たちを弁護しておられます。そしてその後も、ファリサイ派からは宗教的に穢れた人々の地と考えられているフェニキアや、本日の福音にあるデカポリス地方で、なおも弟子たちに奇跡を目撃させています。
⑦ 本日の福音に続くマルコ福音の8章を調べてみますと、ここでも人里離れた所での第二のパンの奇跡に始まって、舟に乗ってそこを去ってから、「天からのしるし」を求めるファリサイ派と主との議論があり、その後主は舟の中で、ファリサイ派とヘロデのパン種に気をつけるよう弟子たちに警告しておられます。そしてこの第二の一連の話の最後にも、ガリラヤのべトサイダで、人々が連れて来た盲人を村の外に連れ出し、両方の目にご自分のつばをつけて癒すという、特別の仕方による治癒の奇跡が語られています。そしてこれら二つの相似た一連の話の後で、主はファリサイ派のいない異教徒たちの地フィリッポ・カイザリア地方で、「人々は私を何者だと言っているか」と弟子たちにお尋ねになり、ペトロの信仰告白や、最初の受難予告などが続いています。マルコ福音書のこのような構成から察しますと、二つの相似た一連の話の最後に、舌のもつれた人や目の見えない人を、いずれも人々から少し離れた所へ特別に連れて行き、ご自分のつばをつけて癒された奇跡は、弟子たちにはまだとても受け入れられないと思われるメシア受難の神秘を、何とか受け入れるよう、内的にご自分のつばをつけてでも、彼らの奥底の心を大きく開かせ、目覚めさせようという深い思いを込めてなされた、奇跡的癒しだったのではないでしょうか。
⑧ 本日の福音によると、主はつばをつけた指でその人の舌に触れられた後、天を仰いで深く息をついたとあります。「深く息をつく」と邦訳されているステナゾーというギリシャ語は、聖書の他の箇所では「うめく」と訳されています。例えばローマ書8章の後半には、空しさに服従させられている被造物が皆、神の子らの栄光の現れを待ち侘びて産みの苦しみに共に呻き、神の子らとされている私たちも体の贖いを待ち焦がれて呻いており、聖霊も言葉に表せない呻きを通して私たちのために取り成して下さっている、などと述べられています。耐え難い程の深刻な苦しみからのぼって来るこのような呻きが、天の御父の御心を最も強く動かす祈りなのではないでしょうか。主も本日の福音の中で、天を仰いでそのような呻きを発してから、察するにかなり大きなお声で「エッファタ (開け) !」と叫び、その人を根深い悪の束縛から完全に解放なされたのだと思います。それは、内的には人間存在全体を一番奥底の悪の力から解放した、特別の奇跡的癒しであったと思われます。
⑨ 現代の日本にも、そのような癒しを必要としている人、際限なく深まる不安と孤独のうちに、自分で自分の魂を出口のない心の奥底に押し込めて、苦しんでいる孤独な人やうつ病などで悩んでいる人が少なくないのではないでしょうか。主は現代のそのような魂たちを絶望的孤独から救い出すためにも、「エッファタ !」と大声で叫ばれたのだと思います。私たちも、現代のそのような精神的心理的病人たちのために、主が天の御父に向かってあげられた呻きと叫びを献げて、神による救いの恵み、心の病からの解放の恵みを祈り求めましょう。本日のミサ聖祭はこの意向で、現代世界の中で特に孤独に苦しんでいる全ての人のために、救いの恵みを願ってお献げしたいと思います。ご一緒にお祈りください。