2009年8月30日日曜日

説教集B年: 2006年9月3日、年間第22主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 申命記 4: 1~2, 6~8. Ⅱ. ヤコブ 1: 17~18, 21b~22, 27.  
  Ⅲ. マルコ福音 7: 1~8, 14~15, 21~23.


① 本日の第一朗読には、モーセが神の民に「イスラエルよ、今私が教える掟と法を忠実に行いなさい。云々」と、神から授けられた掟と法の順守を命じていますが、その中で「あなたたちは私が命じる言葉に、何一つ加えることも減らすこともしてはならない。私が命じる通りにあなたたちの神、主の戒めを守りなさい」と命じていることは、注目に値します。神はモーセを通して語られたこの言葉で、私たち新約の神の民からも、神の言葉に対する徹底的従順を求めておられるのではないでしょうか。神のために何か善業をしようという心で、何かの事業に大きな寄付をしたり、人々にもしきりに寄付を呼びかけたりしている人を見ることがありますが、その熱心には敬意を表しても、それが果たして神の御旨なのかどうかについては、少し距離を置いて慎重に吟味してみる必要があります。いくら善意からであっても、神の掟や神の言葉に、人間のこの世的考えや望みから何かを加えることは、神のお望みに反することになり兼ねないからです。まずは多くの聖人たちの模範に倣って、祈りの内に神の霊の働きに対する心の感覚を磨き深めることに努めましょう。そうすれば、個々の具体的な事柄について、神の霊が私たちの判断を照らし導いて下さいます。時にはすぐに判断できず、長く待たされることがあるとしても。
② 本日の第二朗読に読まれる、「心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉はあなた方の魂を救うことができます。御言葉を行う人になりなさい」という、義人ヤコブの言葉も大切です。ヤコブはここで、聖書を介して神から与えられた人間の言葉も、ゆっくりと年月をかけて成長させて行くべき命の種のように考えているようです。私たちの心の中には、この世的な思いや欲望も雑草のように芽を出し成長して来ますが、それらの雑草が神の御言葉の命を覆いふさぐことのないよう、日々自分の心に注目し、心の草取りに努めていますと、心に植え付けられた神の御言葉は、やがて奥底の心にまでゆっくりと根を伸ばして、次々と美しい愛の花を咲かせるようになり、多くのことを教えてくれます。その生きている神の御言葉に聞き従いつつ美しい人生を営んだのが、聖人たちの歩いた道であり、ヤコブの「御言葉を行う人」という言葉は、そういう人たちのことを指していると思います。この世の人間理性が心の畑に種を蒔いて育てた、雑草のような見解や欲望に従って生きている人が多い中で、「光の源」であられる天の御父は、神の愛の御言葉に従って献身的愛の実を結ぶ人たちを探しておられ、そういう人たちを「造られたものの初穂」となさろうしておられるのではないでしょうか。私たちも、神が求めておられるそういう初穂の群れに入れて戴けるよう、何よりも生きている神の御言葉中心に生活することに心がけましょう。
③ 本日の福音の中で、ファリサイ派の人々がその言い伝えを固く守っていると述べられている「昔の人」という言葉は、presbyteroi (長老) というギリシャ語の邦訳で、ユダヤ社会の指導層を形成していた長老たちを指していると思います。ファリサイ派はその長老たちの間で代々言い伝えられている様々の細かい社会的規定も、モーセの掟と同様に順守し尊重して、それを人々にも守らせていたようです。彼らの言う「汚れた手で」という邦訳の「汚れた (koinais)」というギリシャ語は、「公の」「共通の」などを意味する言葉ですが、宗教的清さを重視していたユダヤ社会では、「世俗的な」「穢れている」という意味のターメーというヘブライ語の訳語として使われていたようです。従って彼らは、ギリシャ・ローマ文化の影響下にある一般社会の空気を吸って来た後には、外的に手が汚れていなくても、まず念入りにその手の宗教的穢れを洗い流してから、食事をしていました。食事の前に手を洗うという行為それ自体は決して悪いものではなく、主も「手を洗うな」とおっしゃっておられるのではありません。私は26年前の1980年9月に、東京のユダヤ教シナゴーグで三日間の研修を受けましたが、その時古い伝統を厳守していると言われる一人のラビ一家が、金曜日の日没時間に食卓上の蝋燭に点火して祈る姿や、食事の前に手際よく手を洗う姿などを見せて戴き、こうして平凡な日常生活の全体をいわば神の御前での祈りのようにしているのに、深い感銘を受けました。平凡な日常行為の中にも心の信仰を美しく表明しようとしていたように見えるその慣習は、私たちの信仰心を育てる真に結構な手段であると思います。
④ 主はその手段そのものを断罪なさったのではないと思います。ただ長老たちの作ったそのような外的手段を絶対視して、もっと大切な神の愛の掟を守ろうとしていない本末転倒を、厳しく退けておられるのだと思います。他宗教とは違う外的手段の厳守には、神の民ユダヤ人だけを特別に神聖視して、他の異教社会を蔑視させるもの、社会と社会、人と人との間に壁を設けるものになる虞があり、全人類の創り主であられる神からのものではありません。ですから主は本日の福音の中で、彼らの心をその本末転倒に目覚めさせるため、「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」と、ことさら厳しく非難なされたのだと思います。ところで、現代の私たちの信仰生活の中にも、無意識のうちに文化と文化、人と人との間に壁を設ける、そのような神よりのものでないものが隠れてはいないでしょうか。主は私たちにも、そのような心の壁から自由になって、全ての人に対する神の奉仕的精神、神の愛の掟を生活の中心にして生きるよう、望んでおられるのではないでしょうか。他宗教の人たちや信仰のない人たちに対しても大きく開いた温かい心で、神の愛の証しを実践的に示すよう心がけましょう。
⑤ 主は最後に、「皆、私の言うことを聞いて悟りなさい」とおっしゃって、人を宗教的に穢すものは外からその人の中に入るものではなく、その人の心の中から出て来るものであることを強調し、人の心の中から出て来る12の悪を数え立てておられます。そのうち始めの六つは複数形で表現されていて、外的にも人に損害を与えてしまう悪い行為を指しているようですが、残りの六つは単数形で表現されていますから、これらは少し違って、まだ心の中に隠れている悪い思いを指しているのかも知れません。どちらも人の「心の中から出て来るもの」で、神の御前に私たちの魂を穢す忌まわしい悪だと思います。私たちも自分の心に気をつけましょう。心は神の命の御言葉を宿し育てる苗床であり、畑であると思います。この世にいる間はまだ原罪の根強い毒麦などと戦わなければならない私たちの心の中には、さまざまの雑草も芽を出し、生い茂ろうとするでしょうが、それらを神の御言葉の愛の火によって絶えず駆除し、心を内的に浄化するよう心がけましょう。主は心を穢す悪を数え上げることによって、私たちにも心の浄化を勧めておられるのだと思います。