2009年8月16日日曜日

説教集B年: 2006年8月20日、年間第20主日、聖ベルナルドの祭日 (三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. シラ 39: 6~10.     Ⅱ. フィリピ 3: 8~14.  
  Ⅲ. ヨハネ福音 17: 20~26.


① 本日記念する皆様の修道会の中心的保護者聖ベルナルドは、1090年にフランス東部のディジョンの城に、ブルゴーニュの貴族の6男1女の一人として生まれましたので、1098年にそこから25キロほど離れたたシトーで、原生林が切り開かれて戒律の厳しいシトー会修道院が創立された頃は、既に8歳位の子供であり、シトー会の修道生活については、子供の頃からそれとなく耳にしていたと思われます。16歳になった頃には背が高く、がっちりとした体格で、騎士として活躍することもできる若者になっていましたが、ラテン語の古典文学研究にも秀でていました。その年頃に母親が他界すると、母ゆずりの瞑想的宗教心も目覚めて来て、彼はこの頃から数年間、騎士や官吏になるか、教師になるか、それとも修道者になろうかと、将来の進路についていろいろと考えていたそうです。ブルゴーニュにはベネディクト会の大きな修道院も幾つもありましたが、23歳になると、その賢明さ故に兄弟や友人たちから愛され慕われていた彼は、ベネディクト会の豊かな修道院に入ることは望まず、禁欲と労働の厳しさ故に志願者が少なくて、存続が危ぶまれるほど困っていたシトー会修道院に入ると言い出し、驚く叔父や兄弟たちを説得したり、友人たちにその理由を説明したり、一緒に入会するよう勧めたりしたそうです。私たちの救いの道を切り開くため恐ろしい苦しみを耐え忍んで下さった主イエスの愛に、自分も労苦を厭わぬ愛をもって応えようと立ち上がった、愛に生きるベルナルドの心意気の美しさに感動したからでしょうか、兄弟3人と友人27人もベルナルドと一緒にシトー会に入会しました。
② 畑仕事に慣れていなかった貴族の若者たちにとって、これは決死の覚悟を必要とする程の決断であったと思われます。しかし、当時のヨーロッパの若者たちの間には、伝統的規則を遵守しているだけの保守的封建主義に飽き足らず、社会を新しく発展させるために労苦を厭わずに何かをしたいという、若い改革的理想主義の精神がうずいていたようです。これが1095年に始まった第一回十字軍の精神的基盤にもなっていますが、ベルナルドの改革的愛の精神に惹かれたシトー会入会者は、その後も続々と増加し続けました。それで2年後の1115年に、ベルナルドは新しい修道院を設立するためクレルヴォーに派遣されました。ところが、この修道院への入会者も急速に増え、ここから派生した修道院は、ベルナルドが死ぬ1153年までに68にも達しました。その中には、英国やアイルランドの修道院も含まれています。それでベルナルドは、シトー会の三人の創立者と共に、生前からシトー会中興の祖として高く評価され崇敬されています。
③ 1145年には、以前にクレルヴォーで聖ベルナルドの弟子であったシトー会員のベルナルド・パガネッリが、ローマ教皇に選出されてエウゲニウス3世となりました。聖ベルナルドはこの教皇から派遣されて、南フランスのアルビジョア異端派に対抗する説教をしたり、第二回十字軍派遣のために、フランスやドイツの各地で説教したりもしています。ドイツの若い騎士たちは、彼の話すラテン語の説教をよく理解できなかったのではないかと思われますが、心の底から愛に燃えて呼びかける彼の熱弁に、大きな感動を覚えていたと伝えられています。彼が残した多くの手紙は、『アルマーの聖マラキ伝』や『神の愛について』と題する論文、ならびに『雅歌について』と題する浩瀚な説教集などと共に多くの人に愛読され、心を神の愛で陶酔させるような麗しい言葉の故に、彼は早くから Doctor mellifluous (甘い蜜の博士) と呼ばれていました。それで教皇ピウス8世は、1830年に正式に「教会博士」の称号を彼に贈っています。しかし、聖ベルナルドは、その死後に盛んになった理知的スコラ神学の博士たちとは違って、それ以前の、いわば心の信仰、心の学問の博士という性格が濃厚な学者なので、むしろ古代教会の教父たちの系列に属する博士として、時折「最期の教父」と呼ばれたりもしています。
④ 聖ベルナルドが12世紀前半に広めた神秘主義も、13世紀後半から盛んになったドミニコ会の本質神秘主義や、その後のカルメル会の本質神秘主義とは異なるものなので、「婚約神秘主義」と呼ばれています。神と人との心の関係を、何よりも神がお創りになった男女の愛の関係に譬えて捉えているからだと思います。主イエスは「天の国のために進んで結婚しない者もある」(マタイ 19:12)とおっしゃいましたが、私たち修道者は正にそういう人間であります。修道者は主キリストを内的に自分の恋人・夫・主人として愛し、絶えず主を念頭に置きながら、日々主と共に生活すべきだというのが、聖ベルナルドの考えであり生き方であります。小さき聖女テレジアは、ある婦人が自分の愛する夫のために、日々どれ程細かく優しい気配りをしながら生活しているかを聞いて、修道院での自分の生き方を反省させられたと書いています。私たちも、愛する夫を持つ妻たちの美しい愛に負けてはなりません。単なるこの世の独身者・単身者ではないのですから。
⑤ 40年ほど前の公会議直後頃から、どこの修道会においても、誓願宣立の言葉が以前の「清貧、貞潔、従順を誓います」から、「貞潔、清貧、従順を誓います」に変更されていますが、私はこの変更の基盤には、ベルナルド的霊性があるのではないかと考えています。修道者もある意味で主キリストの内的恋人・配偶者であり、婚約者・結婚者にとっては清貧よりも貞潔の心が大切だ、と考えられるようになったからだと思います。聖ベルナルドの祭日に当たり、私たちも自分がキリストの愛の配偶者として生活するよう、神から召されていることをあらためて心に銘記し、昔の良妻賢母と讃えられた人たちに劣らない、貞淑で行き届いた愛の表明、愛の奉仕に励む決意を固めましょう。本日の第一朗読は、そのすぐ前にある「彼は早起きして、自分を創られた主に向かうように心がけ、いと高き方にひたすら願う。声を出して祈り、罪の赦しをひたすら願う」という5節の言葉に続く、神への信仰と愛に生きる義人についての話ですが、第二朗読である、一切のものを後にし、ひたすら主キリスト目指して生きていた使徒パウロの述懐と共に、聖ベルナルドの婚約神秘主義の立場で受け止め、理解したいと思います。またただ今ここで朗読された福音は、最期の晩餐の終りに主が天の御父に献げた祈りからの引用ですが、それはそのまま主と一致して全教会のために尽力していた聖ベルナルドの最期の祈りとして、受け止めることもできるのではないでしょうか。
⑥ 聖ベルナルドの霊性は女性たちにも大いに歓迎され、シトー会には女子修道院も数多く創立されるに至りました。13世紀末までにはスカンジナビア半島から地中海までの全ヨーロッパで、男子修道院が700ほど、そして女子修道院も同じ位多く建ち、まだ残っていたヨーロッパの原生林の開拓に目覚しい実績を挙げています。しかし、それらの開拓地で大きな土地や財産を持つようになると、修道精神の乱れも生じて、シトー会は特に宗教改革時代前後に大きな試練を受けるに至りました。北アイルランドの古都アルマーの大司教聖マラキは、ローマへの旅行の途次1139年と1148年に、二度クレルヴォーに滞在した聖ベルナルドの4, 5歳年下の友人ですが、1148年11月2日にクレルヴォーで、察するに聖ベルナルドの腕に抱かれて帰天しました。史料が十分に残っていないのでよく判りませんが、この聖マラキも偉大な神秘家であったようです。というのは、この聖マラキが12世紀半ばから世の終りまでのローマ教皇の特性をラテン語で予言したものと言われる、112の特性の一覧表が、16世紀末にイタリアで出版された『生命の木』という本の末尾に載っており、これが20世紀半ば以来新たに多くの人の注目を引き、話題にされているからです。教会史を専門とする私は40年ほど前に、ローマ教皇史を研究するかたわら、それらの特性についても合わせて吟味してみましたが、それらが各教皇の特徴的一面を的確に言い当てているのに驚いています。その予言に従うと、世の終り前に「ローマの人ペトロ」が教皇位に登位する時はもう近いようです。しかし、私たちはそういう話に不安にならずに、たとい何かの思いがけない異変や苦しい試練に直面しても、神の働きに対する愛と信頼を新たにしながら、冷静に対処するよう心がけましょう。それが、主キリストの霊的婚約者として、神の働きの思わぬ大きな変化にも忠実に従って行く者の道であると思います。聖ベルナルドの取次ぎを願いつつ、皆様の修道会のため、また私たち各人のために、主キリストにあくまでも忠実に従って行く恵みを、聖ベルナルドの取り次ぎで祈り求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。