2009年8月9日日曜日

説教集B年: 2006年8月13日、年間第19主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 列王記上 19: 4~8.     Ⅱ. エフェソ 4: 30~ 5: 2.  
  Ⅲ. ヨハネ福音 6: 41~51.


① 列王記上の18章には、預言者エリヤが民衆の見ている前で天から火を降し、アブラハムの神が真の神であることを立証してバアルの預言者たちを殺させたことが詳述されていますが、本日の第一朗読は、バアル信仰の推進者であった王妃イゼベルがその知らせを受けて、エリヤを殺そうとしていることを知って、預言者が荒れ野に逃げたところから始まっています。その荒れ野に入った所から更に一日の道のりを歩き続けた所というのは、現代のネゲブ砂漠だと思いますが、ネゲブはヘブライ語で「拭く」という意味だそうで、そこは全てがきれいに拭き取られて何も残っていないような、一面に砂だけの砂漠になっている荒れ野だと思います。しかし、その砂漠には一本のエニシダの木が逞しく生えていました。といっても、エニシダはせいぜい高さ2, 3mの木で、そんなに大きな木ではありません。春にたくさんの黄色い花をつけますが、葉は小さいので、エリヤがその木の下に来て座ったと言っても、砂漠の太陽の日差しを少し和らげてくれる程度だったと思われます。急いで逃げて来たのですから、パンもない、水もないという絶望的状態の中で、エリヤはもう死ぬことを望み、神にそのように祈りながらその木の下で横になり、眠ってしまいました。
② すると、天使から起こされて、「起きて食べよ」と、焼いたパン菓子と水の入った瓶を与えられ、それを食べて飲み、また眠っていると、再び天使に起こされて、食べ物と飲み物を与えられました。こうして天使から与えられたパンと飲み物に力づけられたエリヤは、「四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた」と記されていますが、ここで「四十日四十夜」とあるのは、多数の日夜を表現する文学的表現で、その言葉通り四十日四十夜も歩き続けたという意味ではないと思います。神の山ホレブ、すなわちシナイ山は、エルサレムから測っても直線で400キロ程の所にある山ですから。しかし、神の山までのその遠い荒れ野の道を、天使から与えられた食べ物と飲み物から得た力で歩き通したというのが、本日の第一朗読の強調点だと思います。後述する福音の中で主は、「私の与えるパンとは、世を生かすための私の肉のことである」と、暗に主のご聖体のことを指して話しておられますが、私たちの日々拝領しているご聖体の中にも、預言者エリヤに与えられた天使のパンに勝る、神秘な力が込められているのではないでしょうか。
③ 本日の第二朗読には、「あなた方は神に愛されているのですから、神に倣う者となりなさい」という勧めの言葉があります。山上の説教の中にある「天の父のように完全でありなさい」という主イエスのお言葉と共に、心に銘記していましょう。しかし、ここで「神に倣う者」や「完全」とある言葉を、道徳的に落ち度も欠点もない人格者というような現世的意味で受け止めないよう気をつけましょう。それは、私たちを神の子として下さった神の無償の愛の中で、絶えず神の視線を肌で感じながら神の御旨中心の価値観の内に生活しなさい、という意味ではないでしょうか。主イエスが弟子たちの求めに応じて教えて下さった「主の祈り」は、ルカ福音書によりますと、「父よ、御名が聖とされますように」という言葉で始まっていますが、「聖とされる」という言葉は日本人には解り難いというので、「尊ばれる」とか「崇められる」などと邦訳されることがあります。しかし、これでは主の祈りにこの世の人間主体の考えを混入することになり、たとい善意からではあっても、神から求められているキリスト教信仰を歪めることになりかねません。聖は、真・善・美などと違って、神のあの世的愛に輝く清さを意味しており、この世の価値観には属さないので、人間理性中心の考え方に死んで神に従おうとしないと、なかなかその価値観を理解できないのは判りますが、しかし主は、他の箇所でも度々自分に死んで神に従うことを強く求めておられるのですから、私たちは心をを大きく広げて、あの世の無数の天使・聖人たちと共に神のあの世的聖さを讃美しつつ、神の御旨中心の、神主体の価値観の内に生活するよう心がけましょう。「御名が聖とされますように」というのは、父なる神の愛の輝く清さと神の御旨への従順とが、万事に超えて大切にされる世界観が広まりますように、という祈りなのではないでしょうか。これは受肉なされた主ご自身の祈りでしょうが、主は、私たちも主と一致して日々そのように祈るよう、この祈りを教えて下さったのだと思います。
④ ユダヤ教やイスラム教で豚を清くない動物と考え、豚肉を食べないようにしているのは、それがたとい外的にはどれ程清くても、彼らの太祖アブラハムたちの時代に、羊や牛などのように、神にいけにえとして献げる動物とはされていなかったからだと思います。神に献げられるもの、神を目指しているものを清いと考える世界観の一つの現れだと思います。この前の日曜日にも申しましたように、神の御子の受肉によってこの物質界全体は聖化されつつあるのですから、私たちキリスト者は、豚肉を食べてはいけないなどとは考えませんが、しかし、神に献げられるもの、神に向けられているものを聖なるもの、清いものと考える、神中心の来世的愛の価値観を、自分の生活や活動の全般に広げることは大切だと思います。例えば一緒に生活している人と見解や判断の違いが生じて苦しむような時、私たちはとかく相手との性格の違いや、相手のマイナス面などにばかり眼を向け勝ちですが、そういうこの世的価値観の次元から脱皮して、自分を神の子として下さった父なる神の大きな愛と、その神が自分からも愛のいけにえを求めておられることなどに心の視野を広げると、驚くほど簡単にこの世の対立関係を超越して生きることができるようになります。
⑤ 第二朗読の出典であるエフェソ書4章は、キリスト者が皆神によって、キリストを頭とする一つからだにされていることを説きながら、「平和の絆に結ばれて、聖霊のもたらす一致を大切にするよう」勧めていますが、本日の第二朗読はそれを受けて、「神の聖霊を悲しませてはいけません」と説き、神が「あなた方を赦して下さったように、互いに赦し合いなさい」と勧めています。神の献身的愛の輝くような聖さを、私たちも小さいながら日々の生活の中に反映させ、神の子になるよう召された者として、みんな内的に清い美しい聖人になるよう努めましょう。それが、私たち各人に対する神の御旨であり、強いお望みでもあると信じます。善人にも悪人にも陽を昇らせ、恵みの雨を降らせて下さる神は、太陽のように全ての事物を超越して、全ての人を照らし暖め慈しんでおられる愛の本源であります。その神の光と愛を受けて、父なる神が神の次元でして下さっていることを、私たちは人の世の小さな次元で反映させ、輝かせるよう努めましょう。「今日もまた心の鐘を打ち鳴らし打ち鳴らしつつあくがれて行く」という若山牧水の歌をご存じでしょうか。私たちは皆、心に神から一つの鐘を与えられていると思います。それを日々美しい音色で打ち鳴らしつつ、心の底から欣然と神を讃えているでしょうか。
⑥ 本日の福音には、「私はパンである」という主のお言葉が二回読まれます。最初の41節と中ほどの48節にです。そこで仮に最初から47節までを前半、それ以降を後半としますと、前半ではイエスを神から遣わされて来た方として信じ、受け入れるか否かが問題とされており、後半ではそのイエスを受け入れる人、すなわち「天から降って来たパン」を食べる人が受ける恵みについての話であると思います。前日湖の向こう岸で5千人以上の群衆にパンを食べさせるという大きな奇跡をなされた主が、その奇跡を目撃したユダヤ人たちに前半で、「私は天から降って来たパンである」と話し、彼らから主の本質に対する信仰をお求めになると、彼らのうちの一部はナザレから来ていた人たちだったようで、すぐに「これはヨゼフの息子ではないか。我々はその父母も知っている。なぜ今『天から降って来た』などと言うのか」とつぶやき始めました。そこで主は、「つぶやき合うのは止めなさい」と答え、なおも、「私をお遣わしになった父が引き寄せて下さらないなら、誰も私の許へは来ることができない (が、私は私の許に来る人を) 終りの日に復活させる。云々」と、預言者の言葉も引用して、イエスを天から降って来たパンと信じ受け入れる人の受ける恵みについて話し続け、最期に「はっきり言って置く。信じる者は永遠の命を得ている」と言明なさいます。「はっきり言って置く」と邦訳された「アーメン私は言う」という語句は、何かの真実を宣言するような時に使う慣用句ですから、主を信じて受け入れる人が既に永遠の命を得ていることを、主は公然と宣言なさったのだと思います。
⑦ しかし、偉大な奇跡をなさった主のこの宣言を耳にしても、その場のユダヤ人たちはまだ何の反応も示さなかったようで、主はあらためて「私は命のパンである。云々」と、ご自身の本質についてのもっと大きな神秘を啓示なさいます。すなわち主は、先祖が荒れ野で神から受けたマンナよりももっと神秘なパンで、「このパンを食べる人は永遠に生きる」のです。しかも、そのパンとは、「世を生かすための私の肉のことである」と言われたのです。本日の福音はここで打ち切られていますが、この後半部分はここで終わってしまったのではなく、主イエスのこの話に対してはまたもユダヤ人たちから、「この人は自分の肉をどうして私たちに食べさせることができようか」などと批判の声が上がり、主はそれに対して、「私の肉は真の食べ物、私の血は真の飲み物である。云々」という、多くのユダヤ人たちを躓かすような長い神秘的な話をしておられます。後に聖体の秘跡が制定されてみますと、私たちはそれらの神秘なお言葉をそのまま受け入れ、信じることができますが、その場のユダヤ人の多くは、自然理性では受け入れ難い主のこれらの啓示に躓いて、主の御許から離れ去ってしまいました。ただ12使徒たちは頭では理解できないながらも、日頃から主に対する心の信仰・信頼を保持していたので、主の御許に留まり続けました。
⑧ 私たちもここで学びましょう。この世で幸せになるためには、頭の理知的能力は非常に有用であり、何かを自分で理解したり、何かの技術を習得したり運用したりするために必要なものですが、この世の経験を基盤として自分中心に自主的に考え利用しようとするその理知的能力は、しばしば自分で造り上げた何かの原理原則や固定化した価値観を中心にして判断したり裁いたりするので、私たちの心の奥底にあるもう一つの貴重な能力、すなわち神秘な献身的愛の憧れや生命をしばしば抑圧したり歪めたりしてしまいます。あの世からの神の招きは、何よりも私たちの素直な奥底の心に与えられる恵みですので、その奥底の預言者的心を神中心の聖なる愛の内に、神目指して真っ直ぐに伸ばすよう心がけましょう。そうすれば、預言者エリヤが天使からもらったパンや飲み物のように、神からの恵みは私たちの心の中で大きな力を発揮するようになります。主イエスは天地の主なる父を讃美しながら、「あなたは、これらのことを智恵ある人や賢い人には覆い隠し、小さい者に現して下さいました。そうです。父よ、これはあなたの御心でした」(ルカ 10:21) と祈っておられます。主のこのお言葉を心に銘記しながら、私たちも自分の心の奥底に宿る神の聖霊、神の愛に眼を向けつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。