2009年8月6日木曜日

説教集B年: 2006年8月6日、主の変容(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. ダニエル 7: 9~10, 13~14. Ⅱ. ペトロ後 1: 16~19.
 Ⅲ. マルコ福音 9: 2~10.


① 今朝は広島に原爆が投下された61周年に当たります。日本のカトリック教会では、毎年この8月6日から終戦記念の15日までを平和旬間として、世界平和のために祈ることにしており、またそれと関連するさまざまな行事をなしていますが、私たちも日々その人たちと心を合わせて祈ることにしています。それで、本日のミサ聖祭は、世界平和のため神の導きや恵みを願い求めて献げることに致したいと思います。ご協力をお願いします。
② 主のご変容の祝日は東方教会では5 世紀頃から祝われています。8世紀にイスラム教徒のアラブ軍が今のトルコ半島東部のキリキア地方を侵略すると、この地方出身の軍人でそのアラブ軍を撃退し、皇帝の位についたレオ3世 (在位717~741) が、726年に勅令を公布してイコーン崇敬を禁止し、ビザンチン帝国にあった数多くの聖画像を破壊させましたが、するとその反動として、東方教会では主のご変容の奥義が特別に重視され始めたようです。ユダヤ教は出エジプト記20:4にある「偶像を造るな」の禁止令を厳守しており、7世紀前半に創始されたイスラム教もそれに倣っています。しかし、4世紀にコンスタンティヌス大帝の保護や支援を受けて、異教の寺院に負けない美しい聖堂を建設したり、異教の寺院をキリスト教的に改築したりしたキリスト教では、それらの大きな聖堂の内部を美しく飾るために、数多くの聖なるキリスト像や聖母像や聖人像を壁面のモザイクに描いたり、彫刻したりしました。8世紀にレオ3世によってそれらの聖画像が破壊され始めると、最後の古代教父ダマスコの聖ヨハネは、イコーンは聖なるものを映している鏡のようなものであり、沈黙の説教・文盲者の書物・神の奥義の記念・物質聖化の可視的しるしであって、神が肉となってこの世に出現し、この世の物質界を聖化してからは、その神をある意味で宿し表現する秘跡のようなものであると論述し、神への礼拝とイコーン崇敬との本質的区別も明確にして反論しました。受肉した神の御子がこの世に現存し、物質界が聖化されている新約時代の信仰生活は、旧約時代の信仰生活とは違うというのです。ローマ教皇も、この教説を支持してイコーン崇敬を力強く弁護したので、断続的に百年以上も続いた聖像破壊は843年のコンスタンティノープル教会会議によって退けられ、東方教会はイコーン崇敬を公認したその日、四旬節第一主日を記念して、Orthodox (正統) 信仰の大祝日としています。
③ 話が少し横道にそれましたが、為政者側からのこの聖画像破壊の迫害を契機にして、それに強く抵抗し続けた東方教会の修道者や敬虔な信徒たちは、人間的不完全さが混入し易いこの世の複雑な政治問題のために奔走するよりも、神から啓示されたあの世の神秘な奥義を観照することに、より強く惹かれるようになったようです。中世の東方教会修道者たちは、この立場から主のご変容の奥義を特に重んじています。その後の時代にも強力なイスラム勢力と西方のヨーロッパ諸勢力とに囲まれた国際的狭間で、宗教的伝統を忠実に伝承する以外には、政治的自由も異教徒への布教の自由も乏しかった歴史的状況を考慮しますと、東方教会が私たち人間の本当の自由も幸せもあの世にあることを深く心に刻みつつ、主のご変容の奥義を高く評価したのも納得できます。
④ 本日の第一朗読は、紀元前6世紀のバビロン捕囚時代に預言者ダニエルが見た幻として描かれていますが、このダニエル書7章がダニエルの名を借りて書かれたのは、実はユダヤ人たちが紀元前2世紀半ばにシリアのセレウコス王朝の支配下にあって、激しい宗教迫害を受けていた頃とされています。いずれにしても、この世の政治や社会が一つの絶望的行き詰まりの様相を呈していた時代に、神から与えられた幻示だと思います。テロリズムがその隠れた根を国際的規模で拡張しつつある現代の世界も、事によると極度に不安な絶望的行き詰まり状態に直面するかも知れません。しかし、神信仰に生きる私たちには神から大きな明るい未来が約束されているのです。万一そのような暗い非常事態に陥ったら、その時にこそ主のお言葉に従って「恐れずに頭をあげて」天の神に眼を向けましょう。私たちの「贖いの時が近づいている」のですから (ルカ21:28)。一寸先も見えない程暗い冷たい死の霧のすぐ背後には、本日の第一朗読に「その支配は永久に続く」と保証されている主キリストが、天の雲に乗って私たちを迎えに来ておられるのです。旧約のユダヤ人殉教者たちも、中世の東方教会修道者たちも、毅然としてこの信仰を堅持することにより、明るい希望のうちにこの世の迫害や労苦に耐える力を神から豊かに受けていたのではないでしょうか。
⑤ 本日の第二朗読は、察するにネロ皇帝による迫害で、ローマのキリスト者が次々と殉教して行く緊迫した状況の中で認めたと思われるペトロ後書からの引用ですが、ペトロはここで主のご変容を目撃した時の体験を回顧し、「こうして、私たちには預言の言葉は一層確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなた方の心の中に昇る時まで、暗い所に輝く灯火として、どうかこの預言の言葉に留意していて下さい」と勧めています。ここで「預言の言葉」と言われているのは、その前に述べられている文脈からすると、私たちが神から召され選ばれていることと、主キリストの永遠の国に入る保証が与えられていることとを指しています。ペトロは殉教を目前にして、主のご変容の奥義を深く心に刻み、主と一致して自分の心を灯火のように輝かせながら、自分の命を神に献げていたのではないでしょうか。私たちの本当の人生はこの世にあるのではなく、神が支配しておられるあの世の永遠界にあります。使徒パウロがコリント前書15章で詳述しているように、この世の人生は種蒔きの段階のようなものであります。「自然の命の体として蒔かれた」ものが、あの世で「霊的な体となって復活する」のです (コリント前15:44)。私たちも、この世の生活が内的にどれ程不安で暗くなろうとも、あの世で永遠に幸せに生きることを希望しつつ、輝く灯火のようになって生き続けましょう。
⑥ 本日の福音にある主のご変容については、マタイ・マルコ・ルカの三福音記者が、いずれも主がガリラヤの北30キロ程のフィリッポ・カイザリア地方の村々を巡っていて、弟子たちにご自身のご受難についての最初の予告をなされた後の出来事として書いていますが、マタイとマルコによると、主はこの出来事の後にガリラヤを巡り、その途中でご受難についての第二の予告をなしており、ルカによると、その後にサマリアに入っておられます。従って、中世の巡礼者たちが言い出したと思われるガリラヤ南部のタボル山は、主のご変容の山ではないと思われます。タボル山は高さ588mのそれ程高い山ではなく、ガリラヤで大きな謀反が発生したことのあるキリスト時代には、そこにローマ軍の砦も置かれていたと聞きますから。また中世初期には、主のご変容とご受難との密接な関係から、ご変容をご受難の40日前の出来事と考える思想も起こって、9月14日の十字架称賛の祝日の40日前に当たる8月6日を、主のご変容の祝日としていますが、これも確実な歴史的根拠に基づいた日付ではないと思います。
⑦ しかし私は、主のご変容がフィリッポ・カイザリア地方の高い山、すなわち2千メートル級のヘルモン連山の一つの峰での出来事だとしますと、ご変容はやはり夏に起こった出来事であったと考えます。ルカは「次の日、一同が山を降りると」と書いて、主と三人の弟子たちがその山で一夜を明かしたように書いていますが、冬に雪で覆われるヘルモン連山には、夏でないと夜を過ごせないでしょうから。モーセが神から多くの啓示を受けたシナイ山も、海抜2,293mのジェベル・ムーサと1,994mのラス・エス・サフサフェという二つの峰から成っていて、モーセが40日間滞在したのも夏でした。ペトロが本日の第二朗読で「聖なる山で」と述べているご変容の山は、そのシナイ山と同じ位高い山で、神の山シナイ山でモーセとエリヤに語られた天の御父は、この山では旧約の律法と預言を代表するそのモーセとエリヤを証人として、「これは私の愛する子、これに聞け」と、雲の中から主イエスと三人の弟子たちにお語りになりました。雲が突然に現れて一同を覆い隠し、また急に去って行くのも、2千メートル級の高い山ではごく普通に見られる現象です。従ってこのご変容の山は、旧約の神の山シナイ山に対比できる、新約の神の「聖なる山」と称しても良いのではないでしょうか。
⑧ この新約の神の山で、主が「祈っておられると、お顔の様子が変わり、衣は真っ白に輝いた」とルカが書いているそのご変容が始まり、そこにモーセとエリヤが栄光の内に現れて、イエスが「エルサレムで成し遂げようとする最期」、すなわちご受難とご復活について話していた、というルカの言葉から察しますと、モーセとエリヤは、旧約の神の民が長い世代をかけて準備したものが、主のご受難・ご復活によって達成されることを慶び、そのご受難・ご復活を旧約の神の民も待ち望み、支援していることを申し上げていたのだと思います。「これは私の愛する子」という神の声は、主がヨルダン川で受洗してメシアとしての公的活動をお始めになった時にも、天から聞こえましたが、ここでは「これに聞け」という、弟子たちに対する新しい呼びかけも追加されています。「聞け」というのは、「聞き従え」という意味だと思いますが、モーセやエリヤが聞いた神の言葉とは違って、新約時代には神の言葉自体が生ける人間となって出現し、主のご復活の後にも世の終りまで、目には見えなくても人類と共に留まり、救いの働きを続けておられるのですから、天の御父は、その救い主の現存を堅く信じて、日々刻々と変化するその生きている導きや働きに聞き従うという、新約時代にふさわしい信仰生活を営むことを、私たちから求めておられるのではないでしょうか。聖霊の神殿として、私たち各人の内に現存しておられる主の呼びかけに心の耳を傾けつつ、日々その主とともに生きる恵みも願い求めて、本日のミサ聖祭を献げたいと思います。