2009年7月26日日曜日

説教集B年: 2006年7月30日、年間第17主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 列王記下 4: 42~44.     Ⅱ. エフェソ 4: 1~6.  
  Ⅲ. ヨハネ福音 6: 1~15.


① 本日の第一朗読には、天に上げられた神の人エリヤから、その預言者的権能を受け継いだ神の人エリシャによるパンの奇跡が語られています。エリコに近いギルガルの人々が飢饉に見舞われて苦しんでいた時、一人の男の人が、その地を訪れた神の人エリシャの許に、初物の大麦のパン20個と新しい穀物とを、袋に入れて持って来ました。為政者側の政策でバアル信仰が広まり、真の神に対する信仰が住民の間に弱められていた紀元前9世紀頃の話です。しかし、飢饉という恐ろしい自然災害に直面して、信仰を失わずに敬虔に生活していたその男の人は、神の人エリシャの助けを求めて、その初物を持参したのだと思います。信仰に生きるイスラエル人たちは、神の恵みによって収穫した穀物の初物は、感謝の印に神に献げるべき最上のものと考えていましたから、それをエリシャを介して神に献げようとしたのかも知れません。一人の人が袋に入れて持参した少量の供え物だったでしょうが、それを受け取った神の人はすぐに、「人々に与えて食べさせなさい」と召使たちに命じました。召使たちは驚いたと思います。「どうしてこれを百人の人々に分け与えることができましょう」と答えましたが、エリシャは再び命じて、「人々に与えて食べさせなさい。主は言われる『彼らは食べきれずに残す』」と言いました。それで、召使たちがそれを配ったところ、主のお言葉通り、人々は飢えていたのに、それを全部食べきれずに残してしまいました。
② いったいそのパンは、いつどこで増えたのでしょうか。聖書をよく読んでみますと、預言者エリシャは召使たちに「人々に与えて食べさせなさい」と命じただけですから、パンは預言者の手元で増えたのではないようです。パンは、それを配る召使たちの手元で増えたのではないでしょうか。本日の福音にも、主イエスは過越祭が近づいていた冬から春にかけての頃、すなわち農閑期で多くの農民が主の御許に参集し易い時期に、ガリラヤ湖の向こう岸の人里から遠く離れた荒れ野で、五つのパンと二匹の魚を増やして5千人もの飢えている人々に食べさせ、残ったパンの屑で12の籠がいっぱいになるほど満腹させていますが、マタイやルカの福音書によると、それは日が傾いてからの夕刻の出来事であり、暗くなるまでの限られたわずかな時間内に満腹にさせたことを思うと、パンは主の手元でだけ増やされ、弟子たちが大量のパンを小走りしながら5千人もの人々が分散して腰を下ろしている所に運んだのではなく、預言者エリシャの時と同様に、パンを分け与える弟子たちの手元でも、次々と増え続けたのではないでしょうか。それは、その奇跡を間近に目撃した群集の心を驚かし、感動させた奇跡であったと思われます。
③ このパンの奇跡については、主のエルサレム入城やご受難・ご復活などの幾つかの出来事と同様、四つの福音書全部に述べられていますので、福音記者たちは皆この出来事を特別に重視していたと思われます。しかし、他の三福音書にはただ「人里離れた所」と記されているのに、そこに小さな山か丘があったのか、ヨハネだけはこの地形の意味を重視したようで、本日の福音には「山に登り」、「山に退かれた」という言葉が、この奇跡の前後に読まれます。二度も登場するこの「山」には定冠詞が付いていますから、どこか特定の山を指しています。ヨハネはこの「山」という言葉で、旧約のシナイ山に対比できる、新約時代の始まりを象徴する新しい神の山を考えているのかも知れません。その山はシナイ山のように高く聳えて麓の民を見下ろしているような山ではなく、開かれた高台のようになっている、世界中どこにでもあるような平凡な低い山のようです。
④ 主はその山に登って弟子たちと一緒にお座りになり、目をあげて大勢の群衆がご自分の方へ来るのを御覧になります。そしてフィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と話しかけられます。ご自身では既に、これから為そうとすることを知っておられたのですが、主の新しい意図を知らず、ただ目前のことだけに目を向けていた使徒たちは、これ程大勢の群衆に食べさせることの困難さを強調します。この世の人間の力では全てが不可能と思われる絶望的状況の中で、神の救う力が働き、神が驚くべき「しるし」を見せて下さるのです。私たちもそのような絶望的事態に直面する時、この世のことだけに目を向けていないで、すぐに神に心の眼を向け、神に信頼と希望の祈りを捧げましょう。その信頼と希望が揺るがないものに高まるなら、その祈りに応えて、私たちの内に現存しておられる神の力が働いて下さるのではないでしょうか。常日頃絶えず神のお導きに心の眼を向けて生活しておられた主のお姿に見習い、私たちも事ある毎に、いつもすぐ神のお導きとお働きに心の眼を向けるよう心がけましょう。このような習性を身に付け、いつも信仰・希望・愛に生きる人のためには、神も不思議な程よく配慮して下さるからです。
⑤ 本日の第二朗読の出典であるエフェソ書は6章から構成されていますが、初めの3章に祈りや多少教義的な教えが記された後、本日の朗読箇所であるこの4章の始めからは、神の民・光の子としての生活に関する勧めが続いています。その真っ先に強調されているのが、神からの招きにふさわしく歩むこと、すなわち神の霊による一致を保つように努めることです。本日の朗読箇所には「高ぶることなく、柔和で寛容な心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和の絆で結ばれて」などと勧められていますが、それらを自分の人間的な自然の力に頼って実践しようとしても、次々と弱さや不備が露出して来て、なかなか思うようには行きません。人間関係となると、私たち生身の人間の心には、無意識の内に、各人のこれまでの体験に基づいて築き上げて来た自然的価値観に頼って隣人を評価してしまう動きが強く働くようです。そのため、お互いに善意はあっても、心と心とはそう簡単には一致できないことが多いようです。そこで聖書は、各人のその個性的な価値観をもっと大きく広げさせるために、「すべてのものの父である神」に心の眼を向けさせ、「神から招かれているのですから、その招きにふさわしく」神の愛の霊によって生かされるよう勧めているのだと思います。私たち人間相互の本当の一致は、各人が神の力によって内面から生かされることにより、神において実現するよう創られているのではないでしょうか。神においては、霊も主も信仰も洗礼も皆一つになっており、私たちもひたすらその神に心の眼を向け、神の霊に生かされて生きようと努める時、各人は個性の違いを超えて皆一つの新しいからだ、新しい共同体、新しい被造物に成長するのではないでしょうか。私たちは皆そのような被造物になるよう、神から招かれているのだと思います。ミサ聖祭中に皆一つのパンから主のご聖体を拝領する時、神からのこの招きを心に銘記しつつ、そのために必要な心の照らしと恵みを願い求めましょう。
⑥ 話は少し違いますが、毎年この七月下旬と八月には、三ケ日でも館山寺でも、その他この近くの町々でも数多くの花火が上げられ、この修道院でも湖上に上げられる豪華な花火を観ることができます。花火には、心のストレスを発散させてくれる開放的で陽気な明るさがある反面、忽ちに消えてしまう儚さ・哀しさ・寂しさといった裏側の情感も込められていると思います。ある意味で、それは私たちのこの世の人生の縮図でもあると思います。広大な全宇宙の流れの中で、この世の何億、何十億という人間の人生をあの世の側から眺めるなら、各人の人生は花火のようなものではないでしょうか。瞬間に輝き、すぐ消えてしまう刹那の美しさにだけ目を楽しませるだけではなく、それを観賞しながら、同時にこの世の栄華の儚さを心に刻み込んだり、自分の人生の歩みについて回顧したり致しましょう。人間が技術を磨いて打ち上げている花火は、ほとんど失敗せずにさまざまな美しい花を大空に開かせますが、非常に多くの人の現実の人生は、あの世の側から眺めるならば、決して美しい花を咲かせたとは言えないのではないでしょうか。私たちの人生はどうでしょうか。折角神から恵まれた「一つの人生」という賜物です。急がなくて結構ですから、心の底から大きく燃焼し切って、神とあの世の人たちに喜ばれるような花を咲かせ、潔く散って行きましょう。その恵みを祈り求めつつ、本日のミサ聖祭を献げたいと思います。