2009年7月12日日曜日

説教集B年: 2006年7月16日、年間第15主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. アモス 7: 12~15.     Ⅱ. エフェソ 1: 3~14.  
  Ⅲ. マルコ福音 6: 7~13.
① 本日の第一朗読は、紀元前8世紀に北イスラエル王国で支配階級の圧制の罪を糾弾したアモス預言者の書からの引用ですが、その第7章の始めには、まずアモスが見た三つの幻が記されています。第一は大地の青草を全て食べ尽くすイナゴの幻、第二は湖も畑も焼き尽くす審判の火の幻ですが、アモスが神に願ったので、神は思い直されてこれらの不幸は起こらないと言われます。しかし、第三の北イスラエル王国を廃墟にする恐ろしい幻は、そのまま残ります。その預言を聞いた王国の祭司アマツヤは、国王ヤロブアムにそのことを報告しましたが、それに対する国王の返事は明記されていません。しかし、たぶん国王の意を受けて、アマツヤがアモスに言った言葉が、本日の朗読箇所になっています。祭司アマツヤはアモスに、このイスラエル王国では殺される恐れがあることをにおわせながら、ユダ国に逃れ、そこで預言するよう勧めて、ベテルでは二度と預言しないよう命じています。それに対してアモスは、自分は予言を専業としている預言者でも預言者の弟子でもない、ごく普通の貧しい農夫に過ぎないが、しかし神から「行って、わが民イスラエルに預言せよ」と言われ、派遣されて来たのだ、主のお言葉を聞け、という風に答え、本日の朗読箇所にはありませんが、すぐ続いてアマツヤについても、神からの恐ろしい宣告の言葉を告げています。それらはいずれも、北イスラエルが間もなく大国アッシリアに侵略された時に、現実となったと思います。神は、専門の宗教者や超能力に秀でた預言者たちを介してだけ語られるのではありません。それよりもむしろ、平凡な民間人や小さな者たちを介して、お語りになることが多いと思います。私たちも、その神の声を軽視したり聞き逃したりしないよう、特に平凡な小さな出会いや小さなしるしなどに気をつけましょう。神は、小さなものや小さな出来事を通してそっと私たちに近づき、心を試したり恵みを提供したりなさることが多いからです。
② キリストという言葉を幾度も登場させている本日の第二朗読は、キリストにおいて授けられた恵みゆえに父なる神を讃える、初代教会の荘厳な讃歌だと思います。古来多くの聖人賢者たちも、深い感激のうちにこの讃歌を愛唱して来ましたが、私たちもそれに倣って、この素晴らしい信仰の遺産を大切にし、私たちの心が日々その深遠な思想に満たされ養われるように心がけましょう。私は自分で持たず使っていないのでよく判りませんが、日々インターネットや携帯電話などに囲まれて生活している現代人の中には、人間関係が産み出す各種の絆しや規制、あるいは「しなければならない」という義務感や業績主義、さらにそういう無数の気遣いから生ずるストレスを解消するための様々な依存症などに束縛され、いつまでものびのびと意欲に溢れた生き方を体得できずにいる人が多いのではないでしょうか。そういう人たちの心に一番必要なのは、この古い讃歌にみなぎっているような、三位一体の創造神に対する視野の広い明るい感謝と愛と信頼の精神だと思います。
③ 神は、互いに苦しみ苦しめ合っているこの悲劇的人間たちだけをお創りになったのではなく、その前にまず、私たち人間の想像を絶する程大きな、また神秘に満ちた大宇宙とその中にある全ての存在を次々とお創りになり、聖書によると、最後にご自身に似せて私たち人間を、いわば万物の霊長としてお創りになって、これに万物を支配する使命、すなわちこの地上で働きながら能力を磨き、神のお創りになった万物を次第に深く理解して、神の創造の業に感嘆したり感謝したりしつつ、万物を神と共に世話する使命を与えて下さったのです。18世紀の啓蒙主義者たちのように、この世の時間空間的次元の考え方を神の創造にまであてはめ、神の創造をもう終わってしまった過去のことと考えることには警戒しましょう。時間空間を超越しておられる神の立場で考えるなら、宇宙万物の創造は今も続いている継続的現実であり、万物の霊長としての私たち人間の創造も、また「新たな創造」と称してもよいその救済も、まだ終わっていない継続的現実だと思います。創世記1章の終りに読まれる、「神はお創りになった全てのものを御覧になった。見よ、それは極めてよかった」という神のお言葉も、過去のものではなく、今も着々と実現し続けている事実なのではないでしょうか。神による創造が完全に実現するのは、その創造の過程で発生した罪悪の穢れが完全に払拭されて、神中心の義と愛に輝く永遠の新しい天と新しい地が、栄光の主キリストと共に現れ出る時だと思います。本日の第二朗読にある讃歌も、この観点から愛唱する時、三位一体の神の恵みと働きに対する大きな感謝と明るい信頼・希望の念が、心の底から湧き上がるのを禁じ得ないと思います。
④ 本日の福音は、主が「12人を呼び寄せ」という言葉で始まっていますが、主はこの12という数に特別の意味を与えておられたと思います。それは、旧約時代の神の民12部族に対応する新約時代の神の民の中核を構成するもの、新しい神の民のシンボルでもあると思います。使徒パウロも「12人」という言葉を、新約時代の神の民のシンボルとして使っていると思われる箇所があります。コリント前書15章に復活したキリストに出会った人々を列挙して、「ケファに現われ、その後12人に現われた」と書いている所であります。この時には裏切り者ユダは既に死んでいましたし、その代わりにマチアが使徒に選出されたのは主の御昇天後でしたから、12使徒のことを指しているのなら、「11人に現われた」と書くべきだと思います。しかし、敢えて「12人」と書いたのは、それが神の民全体の中核を象徴していたからだと思われます。
⑤ 私の少し勝手な想像ですが、12使徒たちは殉教してあの世に移った時点で、もうその使命を完全に終えて引退してしまったのではなく、あの世においても新しい神の民の土台としての使命のために配慮し、今も私たちその使命を受け継いでいる宣教者たちに陰ながら伴って、尽力しているのではないかと考えます。主は、ルカ福音書6章によると、山で夜通し神に祈られてから、ご自身で選出なされたこの神の民の中核・土台となるべき使徒たちに、神の国を全人類に広める使命をお与えになったのですから。従って現代の私たちも、何よりもその使徒たちが主から受けた使命と教えから離脱しないよう慎重に心がけながら、使徒時代からの教会の伝統に基づいて自分の受け継いだ宣教使命を果たすべきだと考えます。メシアの来臨と活動の受け皿を整え、そこにメシアを迎えて神の国を広めるはずであった旧約の神の民が、その使命の達成に不熱心になり、自分たちの現世的安泰だけを優先して生きるようになった時、厳しい天罰を受けたように、新約の神の民である私たちも、主が使徒たちにお与えになった使命、すなわち神の国を全人類に広めるという使命の達成に不熱心になり、自分たちの思想や自分たちの安泰を優先して生きるようになるなら、厳しい天罰を覚悟しなければならないと思います。2千年前の一部のユダヤ人たちの失敗に学んで、気をつけましょう。
⑥ 本日の福音には続いて、「汚れた霊に対する権能を授け」、「二人ずつ組にして遣わされた」とあります。神の国は、頭で理知的に理解させることのできる道徳的あるいは哲学的教えでも、理性に説明することのできる外的技術的知識でもなく、人の心の欲望を拠点にしている悪霊を放逐して、何よりもその心の中に神の支配を確立する生きる神の生命力だと思います。新約の神の民は、その霊的戦いのために派遣されているのです。それは人間の力だけでは勝てない戦いなので、神からの特別の権能が授けられたのだと思います。しかし、神の愛から産み出されたこの権能は、派遣された各人がそれぞれ自分の心の欲を抑制しつつ、育ちも性格も違う同僚たちと共に生活し助け合う、神の広い自己犠牲的・奉仕的愛に生きるところで、生き生きと力強く働く愛の能力だと思います。ですから主は、二人ずつ組にして派遣なされたのではないでしょうか。人生苦を超越する悟りの道を人間の側から発見し確立なされた釈尊は、その教えと道を一人でも多くの人に伝えるために、お弟子たちを一人ずつ派遣なされた、という話を聞いたことがありますが、神よりの愛の実践を基盤とする神の民の道は、それとは対照的に違っていると思います。
⑦ 続いて主は、派遣される宣教者の心得についても、二つのことを命じておられます。その一つは持ち物についての心構えであります。杖を持つことと履物を履くことは許されています。杖は野獣や蛇などの害を避けるため、また履物は荒地の野山を歩く時のために、当時の旅人には必需品だったからでしょう。しかし、パンも袋も金も持ってはならず、下着は二枚着てはならないとあります。これらのお言葉は、当時のユダヤ住民の生活事情を考慮して受け止めるべきだと思いますが、それにしても主はなぜこんなに厳しい命令をお与えになったのでしょうか。いずれ人類の贖いのため十字架上のいけにえとなることを覚悟しておられた主ご自身も、欲心を統御するため、常日頃清貧と節制に心がけておられたでしょうが、清貧と節制を愛する心の中に、悪霊の支配を打ち砕く神の権能も力強く働くことを、数多く体験しておられたからなのではないでしょうか。人間の力や人間の蓄えたものに頼り過ぎずに、ひたすら神の導きと力により縋って、人々の心から悪霊を追い出し、神の国を打ち建てるよう、主は厳しいご命令をお与えになったのだと思われます。
⑧ 主はもう一つ、宣教先での心構えについても命じておられますが、「ある家に受け入れられたら、旅立つ時までその家に留まりなさい」というのは、より快適な待遇を求めて家を変えようとしてはならない、という意味ではないでしょうか。また「迎え入れられないなら、出て行く時に (当時のユダヤ人の慣習に従って) 足の裏の埃を払い落としなさい」とあるのは、神の国の宣教者を受け入れない家には、神の保護が保証されないことを世に示すように、という意味の命令なのではないでしょうか。いずれにしても、宣教者は自分の考えや自分の力で神の国の福音を広めるのではなく、自分をいわば神の僕や神の器のようにして、自分の中で働いて下さる神の霊の導くままに、受け入れる人たちの態度に応じて神の国を広めることを、主はお命じになったのだと思います。宣教者たちが清貧と神への従順に努め、神の霊が彼らを通して働くことを、主は望んでおられるのだと思います。これは、現代の人間にとっては難しいことだと思います。私たちは毎月の第一月曜日に、司祭・修道者の増加と活動の成功のためミサ聖祭を捧げて祈っていますが、本日のミサ聖祭は、現代の神の国宣教者たちの霊的向上と成功のためにお献げしたいと思います。宜しければ、この目的のためご一緒にお祈り下さい。