2009年7月19日日曜日

説教集B年: 2006年7月23日、年間第16主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. エレミヤ 23: 1~6.     Ⅱ. エフェソ 2: 13~18.  
  Ⅲ. マルコ福音 6: 30~34.


① 毎年の復活節第四主日には、年毎に朗読箇所は多少違いますが、いつもヨハネ福音書10章の羊飼いの譬え話の中から福音が読まれますので、「善い牧者の主日」と呼ばれることがありますが、典礼B年の年間第16主日も、その集会祈願や聖書朗読から、第二の「善い牧者の主日」と称してもよいと思います。本日の第一朗読には、「牧場」という言葉が2回、「羊の群れ」あるいは単に「群れ」という言葉が5回も登場していますが、旧約聖書には他にも、神の民を「羊の群れ」と呼び、その民の居住地を「牧場」と呼んでいる例は幾つもあります。私たちが朝の祈りの時などに愛唱している詩篇の100番にも「私たちは神の民、その牧場の羊」という言葉があります。この頃の私はこういう祈りに接すると、私たちの住んでいるこの地球は、神が大きな愛をもって創造し、住み易いように整備して下さっている美しい牧場ではないのかと考え始め、神に対する感謝の念を新たにしています。この広大な宇宙には、私たちの想像を絶するほど多くの恒星、すなわち太陽のように光り輝く星が散在していますが、そのような灼熱で燃えている星には、生物は存在できません。そこで半世紀ほど前から、そういう恒星の周りを、ちょうど地球が太陽の周りを回るようにして周期的に巡っている、灼熱していない惑星を発見する研究が進められています。ほんの少しでも周期的によたよた揺れ動く恒星の近くには、発光していない巨大な惑星があるのではないかという考えから、高度の綿密な観測が続けられたのですが、そういう惑星は光っていないのですから、長い間なかなか発見できずにいました。
② ところが近年、50光年ほど離れた恒星が周期的に揺れることから、その側に巨大な惑星が巡っていることが発見され、その後次々とそのような惑星付き恒星が90も発見されるに至りました。これは3年ほど前の話ですから、今はもっと多く発見されているかも知れません。しかし、そのいずれもが私たちの太陽系惑星とは大きく異なっていて、巨大惑星は灼熱する恒星にあまりにも近くて高温で燃えているか、あるいは細長い楕円軌道を描いて回っており、こんな細長い楕円軌道では惑星の表面温度が極度に暑くなったり、極度に冷たくなったりするので、とても生物が住める環境にはならないのだそうです。そこには水も空気も奪われ、失われていると思われます。そこで、シュミレーションを作っていろいろと実験を重ねてみると、惑星付き恒星は、そのような形で自分の周囲を巡る惑星を持つのが普通で、太陽系のように、巨大惑星である木星が、太陽から程よく離れた位置で円軌道に近い回り方をしているために、地球も水や空気をバランスよく保持しつつ、程よい位置で円軌道に近い回り方をしているのは、非常に存在確率の小さい、全く例外中の例外といってよい幸運なのだそうです。
③ もし素材となるガス体の量が多くて、二つ乃至それ以上の巨大惑星が造られるとすると、全て楕円軌道を公転するのだそうですが、太陽系の場合にはそうならずに、一つの巨大惑星である木星が太陽から程よく離れた位置で円軌道に近い回り方をしていること自体も、真に珍しい現象なのだそうです。そう考えると、神はこの太陽系のために、特別に配慮して下さったのではないでしょうか。将来地球以外のこの太陽系のどこかで、例えば木星の衛星エウロパの、数十メートルの厚い氷の下の暗い海の中に、微生物やそれを餌とする深海魚のような生物が発見されるかも知れません。しかしその生活環境は、地球の深海とも比較できない程劣悪で、厳しいものだと思われます。それを思うと、「水の惑星」と言われるこの地球は、神が特別に目をかけてお創りになった「神の民、人類の牧場」であると思います。これは単に私個人の見解ではなく、1990年代の中頃から世界の一流科学者たちの間でも新たに言い交わされている話でもあります。地球をこのように生物の住み良い星にお創りになった神の格別の愛に感謝しつつ、本日の感謝の祭儀を献げましょう。
④ 本日の第二朗読には、「実に、キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律づくめの律法を廃棄されました」と邦訳されている言葉が読まれますが、ここで「二つのもの」とあるのは、その直前の11節と12節に述べられている文脈からすると、律法を持つ旧約の神の民イスラエルと、律法を知らない異邦人たちを指しています。ところで、主が山上の説教の中で「私が律法や預言者を廃するために来た、思ってはならない。廃するためではなく、成就するために来たのである」(マタイ 5: 17) と話しておられるお言葉を考慮すると、旧約の神の民に授けられた律法、そして今もユダヤ人たちが真面目に遵守している律法は、始めから無用の長物だったのだ、などと考えてはなりません。福音の恵みを深く悟り、神の求めておられる実を豊かに結ぶためには、自分に死んで神中心に生きさせようとする厳しい律法の世界を通る必要があると思います。律法の遵守は、いわば野放しの荒地を開墾する作業のようなものだと思います。旧約の神の民は、幾度も神に背き預言者たちに叱責されながらも、とにかく曲がりなりにも新しい神の恵みの種が成長し実を結ぶための耕地を準備して来ました。そしてユダヤ人たちは、今も熱心にその開墾に励んでいます。
⑤ しかし、旧約の神の民は自分たちの耕した畑に育って大きくなった神の生命の木メシアを、その畑地の外に捨ててしまったために、エルサレム神殿の滅亡という恐ろしい天罰を受けました。でも、神の民の一部は、その古い畑地から捨てられ、神によって復活させられた新しい生命の木につながれた枝となって、立派に実を豊かに結んでいます。神への従順に生きるその新しい神の民の言葉に従って、その生命の木に接木された異邦人たちも、同様に豊かな実を結ぶようになりました。しかし、この実りの豊かさの基礎には、常に己に死んで主と共に自分の心の畑を掘り起こし耕すという苦労のあったことを、見逃してはなりません。福音は、律法の厳しさを内的に自分の心の中に取り入れることによって、豊かな実を結ぶのだと思います。
⑥ では、本日の第二朗読に読まれる「敵意という隔ての壁を取り壊し」「律法を廃棄された」という言葉は、どういう意味でしょうか。私はこのことを考える時、よくイソップ物語の北風と暖かい春の太陽の話を心に思い浮かべます。自分中心という生き方を脱ぎ捨てさせ、神中心に神の子、神の僕・婢のようにして生きさせるために、律法は冷たい北風を吹かせることが多かったのではないでしょうか。それに比べると、律法を成就するためにお出でになった神の御子は、まず御自ら神中心に生きる模範を世に示し、全ての掟を「私が愛したように愛せよ」という愛の掟一つに統合することにより、対神愛と隣人愛を一つの愛にして下さっただけではなく、春の太陽のような温かさの内に、旧約の神の民にも異邦人たちにも、人間中心という生き方を脱ぎ捨てさせ、神の御子の命に生かされて生きる道をお開きになったのではないでしょうか。「このキリストによって私たち両方の者たちは、一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです」という第二朗読の言葉は、このことを指していると思います。すなわち旧約の神の民ユダヤ人も異邦人も、ただ自分中心の生き方に死んで復活の主キリストの命に結ばれ生かされることにより、神の愛の霊に生かされる一つの新しい共同体、新しい被造物になり、天の御父に受け入れられる存在になるのだと思います。
⑦ 本日の福音は、パンも袋も金も持たずに数日間宣教して来た使徒たちの報告を聞いた後、主が「人里離れた所へ行って、暫く休むがよい」と答えて、彼らと一緒に舟で人里離れた所へと向かわれたことから始まっていますが、農閑期で農夫たちに仕事がなかった時だったのでしょうか、使徒たちの宣教に感激して後を追って来た群衆は、舟の行方を見定めつつ、湖畔を駆け巡って先に対岸に到着したようです。羊飼いが何かの事情でいなくなり、荒れ野に残された羊の群れは、野獣など危険から守ってくれる新しい牧者を見つけると、そこに一斉に群がって来るようですが、主もこの時の大勢の群衆の素早い動きを御覧になって、飼い主のいなくなった羊の群れのように思われたのではないでしょうか。本日の福音には、主が彼らを「深く憐れみ、いろいろと教え始められた」とあります。ここで使われているギリシャ語の「スプランクニゾマイ(深く憐れむ)」という動詞は、共観福音書には12回登場していますが、いずれの場合も、神または主イエスが憐れむような時にだけ使われていて、対等な人間同士の単なる同情とは違っています。譬え話の中でも、戻って来た放蕩息子を抱く父親などに使われています。主も、群衆に対する神の深い憐れみの御心に動かされて最初の予定を変更なされ、彼らに教えを説き、後でパンの奇跡もなさいました。
⑧ 今日は日曜日ですので、ここで少し「安息日」ということについて考えてみましょう。旧約の神の民にとり週単位の安息日は、いわば時間における「神との契約のしるし」とされて、重視されていたのは真に結構なのですが、旧約末期のユダヤ人たちは安息日の外的規則を強調して、その日には一切の労働ばかりでなく、労働に準ずると思われる行為までもしないように努めていました。「安息日にしてはいけない」というマイナス面の規則厳守にだけ囚われていたようです。主はこれに対して、いわば新約時代のための新しい安息日遵守の仕方を身を持ってお示しになり、そのため幾度もファリサイ派ユダヤ人たちと対立したり論争したりなさいました。主は安息日を神に献げられている日として大切になさり、その日には肉体労働などはなさいませんが、しかし、人を救う必要性に出遭ったり、あるいは苦しんでいる人に神の大らかな愛の御心を示す必要が生じたような時には、「深く憐れむ」神の御心に内面から動かされるようにして、すぐにその人を癒したり助けてあげたりしておられました。これが、主の安息日遵守の仕方であったと思います。それは主にとって、この世の生活のために働く日ではなく、神に特別に心を向けて共に過ごす日、神に感謝する日、神の栄光のため積極的に祈りか何かの愛の業を喜んで為す日だったのではないでしょうか。主がその安息日の翌日、すなわち週の初めの日に復活なされ、週の初めの日に弟子たちの上に聖霊を豊かに送って新しい神の民を誕生させてから、新約の神の民にとり、安息日は日曜日に変更されたと考えられます。私たちは主キリストの仕方で、積極的に神と共に過ごす日、積極的に何かの善業をなす日として毎週の日曜日を過ごしているでしょうか。日曜日が時間における「神との新しい契約のしるし」であることを心に銘記しつつ、そのプラス面での積極的遵守に心がけましょう。そのための照らしと恵みを願い求めつつ、本日のミサ聖祭をお献げしたいと思います。