2009年8月23日日曜日

説教集B年: 2006年8月27日、年間第21主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. ヨシュア 24: 1~2a, 15~17, 18b. Ⅱ. エフェソ 5: 21~32.  
  Ⅲ. ヨハネ福音 6: 60~69.


① 本日の第一朗読には、モーセの後を継いで神の民を約束の地に導き入れたヨシュアが、イスラエルの全部族をその約束の地の中心部にあるシケムに集めて、自分たちをエジプトから導き出して下さった神のみに、これからも徹底して仕えるという決断を、彼らから求めています。この決断は、自分の心で自由に決めたものでなければなりません。ですからヨシュアは、「もし主に仕えたくないならば」、「仕えたいと思うものを、今日自分で選びなさい。ただし、私と私の家は主に仕えます」と告げています。幸いこの時の民は、「私たちも主に仕えます。この方こそ、私たちの神です」と答えてヨシュアを安心させ、神の言葉に従って苦労を共にしながら約束の地に入った民が、ここで分裂して神の民の共同体が解消してしまうことはありませんでした。
② ここに「他の神々に仕える」とある言葉は、天地万物の創り主で私たち人間の考えを遥かに超えておられる、神秘で偉大な愛の神に従うことを止め、人間が自分の心の憧れに基づいて産み出した宗教や世界観を、自分の人生の最高基準となすことを意味しています。人類がその幾世代にもわたる無数の失敗・成功体験に基づいて、下から産み出した宗教や世界観が全て根本から間違っていると考えることはできません。人間は誤り易い存在ではありますが、それでも神からの真理を発見し、正しく理解する能力を与えられています。聖書によると、神がその御言葉を発しながらお創りになった天地万物も、ある意味で神の言葉の現われ・啓示であって、声なき声で私たちの心に非常に多くのことを教えています。しかし、世界各地に住み着く程に数多くなった人間が、それぞれ自分の狭い経験や理性に従って自主的に造り出した宗教や世界観を保持するようになりますと、相互に大きく異なる経験や思考に基づいて産み出された宗教や世界観の対立から、社会に様々の誤解や対立・抑圧などが生ずるようになることでしょう。
③ そこで神は、この段階にまで各種の文明文化を発展させて来た人類に、神の霊によって全被造物を一層深く洞察し、神の言葉に従って全てを愛と平和の内に正しく統治させるため、こうして万物の霊長としての人間本来の使命を達成させるため、まず一つの小さな神の民を起こし、やがて神の御言葉が受肉して、神を信ずる全ての人を、神の愛に生きる一つ共同体に発展させるための内的地盤を準備なさいました。この神の民にとって最も大切なことは、自分中心に自分の考えに従って何かをしようとし勝ちであったこれまでの生き方を脱ぎ捨て、神のお考えに従って神に仕えようとする、神の民としての新しい生き方を身につけることだと思います。それでヨシュアは、約束の地に落ち着いた時点で、民にその決意を強く求めたのだと思います。
④ 本日の第二朗読は夫婦の愛について教えていますが、同時に、キリストとその教会、すなわち救い主と新しい神の民との愛の関係についても教えています。キリストは神の民という教会共同体の頭であり、教会を愛し、教会のためにご自身の全てをお与えになったのです。それは「教会を清めて聖なるものとし」、汚れのない、栄光に輝く教会をご自分の前に立たせるためでした。「そのように、夫も妻を自分の体のように愛さなくてはなりません」「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」のです。「この神秘は偉大です」というのが、夫婦というものについてのその教えの根幹ですが、そこには、「キリストが教会の頭であるように、夫は妻の頭です。教会がキリストに仕えるように、妻も全ての面で夫に仕えるべきです」という教えも記されています。全ての人間の平等、男女の平等という現代社会の通念で生活している人たちにとり、聖書のこのような思想は、女性に不当のしわ寄せをしていた前近代の見苦しい社会的遺物に過ぎず、速やかに排斥して平等な男女関係に改革すべきものと映ずるかも知れません。しかし私は、多くの現代人を躓かせる神よりのこの啓示の中に、夫婦を内的に深く一致させ仕合わせにする神の祝福が、そっと隠されているのではないかと考えます。
⑤ 私は結婚生活というものを体験していませんが、しかし、司祭に叙階されてローマで7年間留学していた時、満2年経った後に教皇庁からイタリア語で聴罪する免許書をもらい、その後の5年間は、ローマに滞在している間中ほとんど毎日曜・祝日に、神言会本部修道院の近くにある大きなサン・べネデット教会で、2時間ないし3時間も小さな告解場に腰掛けて、多くのイタリア人の告白を聴いていました。御受難会の司祭たちに依頼されて一緒にワゴン車に乗せられ、老人ホームや精神病院で聴罪したことも、一度は四旬節に軍隊で兵隊たちの聴罪をしたこともあります。第二ヴァチカン公会議前後頃のイタリアでは、まだ告解者が非常に多かったので、このようにして数多くの人の告白を聴いている内に、現代の家庭に秘められている様々の問題、夫婦や親子や若い男女の心の悩みについても、あるいは老人ホームに入居している人たちの悩みなどについても、新しく学ぶことが少なくありませんでした。そういう心の指導体験からも、保守的傾きの強い私は、下から家庭を、また社会を内的に支え一致させて行くところに、女性は優れた能力や使命を神から戴いていると確信しています。神の御前では男も女も人間として平等ですが、女性は下から家庭を、また社会や教会を産み出し育てるという、特別の使命を神から授かっているのではないでしょうか。聖母マリアは、その模範を見事に体現しておられると存じます。ある人はヴァイオリンを持つ左手を女性に、弦を持つ右手を男性に譬えていますが、美しい音楽を奏でるためには、上にある右手ばかりでなく、下にある左手も大きな働きをしているのです。ただし、男性がその機能を十分に果たせないような異常事態になった時には、女性が男性に代ってその機能を立派に果たすことも起こり得ます。未曾有の異変が頻発する現代世界は、あるいは半分そのような異常事態に突入しているのかも知れません。しかし、それは神が初めに意図された本来あるべき正常の状態ではないと考えます。
⑥ 私がヨーロッパ留学から帰国して20年以上も経った1990年前後頃に、昨年他界したすぐ上の兄の家に宿泊すると、兄嫁から度々兄に対する心の不満を聴かされました。家族が全員カトリックで、その生活には何も問題がないのですが、60歳代の女性の心には、男性の心を独占し支配しようとする欲求が強まる時期があるようで、夫の結婚前の他の女性との関係が赦せずに悩んでいました。私は兄嫁の不満を温かく聴いてあげるだけで、兄を弁護するようなことは何一つ言わずにいましたが、2, 3年後に再び訪れた時には、兄嫁が兄を心から赦す気になっており、また兄に心から深く感謝していて、それからの二人の老後は本当に仕合わせそうでした。私たちは皆欠点多い人間ですが、相手のマイナス面を詮索したり責めたりせずに、真実は謎に包まれたままであっても、そのマイナスを自分も黙々と背負って相手を心から寛大に赦す、春の太陽のような神の愛に生きること、それが家庭や社会に神の祝福を齎すのではないでしょうか。相手の覆いを剥ぎ取ろうとする、冬の北風のような冷たい理屈や原理主義が心の中で暴れないよう、気をつけましょう。どんな恨みごとも寛大に赦し、感謝する心、それが私たちの人生に神の祝福を招くのです。私は兄嫁の心の変化から、そのようなことを学びました。
⑦ 本日の福音は、パンの奇跡を目撃したユダヤ人たちに対する主の話の最後の部分ですが、冒頭に述べられているように、主の話を聞いていた多くの人たちは、「実にひどい話だ。誰がこんな話を聞いていられようか」とつぶやいています。それは、主に対して初めから否定的批判的であったユダヤ人たちのつぶやきではなく、むしろ主を信じ、主に従って行こうとしていた人々のつぶやきであったと思われます。いったい彼らは、主の話のどこに躓いたのでしょうか。「実にひどい話だ」というつぶやきの直前に、主は「私の肉は真の食べ物、私の血は真の飲み物、云々」と話しておられますから、この話に躓いたのではないでしょうか。主はそれに対して、「命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。私があなた方に話した言葉は霊であり、命である。云々」と、なおも彼らの心を、深い神秘へと導き入れようとするようなお言葉を話されました。今の自分には理解できなくても、神よりの言葉には徹底的に従おうとする、素直な僕・婢のような信仰の心をお求めになったのだと思います。「肉」と表現されているのは、物質的な肉のことではなく、旧約聖書にもよく登場する、人間存在や人間の全体を意味する時の「肉」だと思いますが、ここでは更に、罪に汚れた人間の理知的で自己中心の考えや心をも意味していると思われます。罪によって天上からの霊的照らしを失い、半分霧に閉ざされているような心で、天から降って来られた神の子の言葉を解釈しようとしても、それはいたずらに自分の誤解や謎を勝手に深めるだけで、何の役にも立たない。自己中心のそんな心から脱皮して、まず幼子のように素直に主のお言葉を受け入れ、それを保持し尊重しようとするならば、その言葉に込められている神の霊や命が心の中に根を張り芽を出して、あなた方の心に天上の真理を悟らせ、数多くの体験を通して確信させてくれるであろうというのが、それらのお言葉に込められた主の御心だと思います。
⑧ 私は主のこういうお言葉に接すると、聖ベルナルドの世にあまり知られていない小冊子『恩寵と意志の自由』の中に読まれる「二つの自由」についての話を思い出します。その一つは、全ての知性的存在が本性的に保持している選択の自由、自己中心に考えて選び取る自由で、この自由は地獄に落ちた悪魔や霊魂たちも永遠に失わず、全く自由に神と人間を憎み、一切の和解を拒み続けていると考えられています。もう一つは、全被造物の中のごく小さな一部分でしかない自分を中心にした生き方、考え方から脱皮して、相手に自分を与え、自分を委ねて共に生きようとする愛の自由です。これは、放蕩息子の譬え話にも描かれているような神の愛の自由であり、互いに愛し合っている親子や男女の間でも見られますが、私たちもこのような神の愛の自由を体得しない限り、天の国には入れてもらえないと思います。
⑨ ここでもう一つ、「信仰」ということについても考えてみましょう。私たちはよく、自分の経験や理性に基づいて、これは信じられる、それは信じられないなどと言いますが、それは自分の理解を中心にして「本当だと思う」というだけの、いわば「頭の信仰」、あるいは「肉」の信仰でしかなく、神が私たちから求めておられる愛の信仰ではありません。そういう「頭の信仰」は、地獄に落ちた悪魔や霊魂たちも持っています。この世の私たちの想像を絶するほど苦しめられているでしょうから、神の存在も全能も確信していることでしょう。聖書の原語であるギリシャ語の pistis (信仰) は、信頼という意味の言葉で、これは知性的な理解の能力ではなく、実践によってだんだんと磨き上げるべき意志的な心の能力、愛の能力を指しています。例えば、水に身を任せて泳ぐ能力や、自転車に身を任せて乗り回す能力などは、いずれも心の能力だと思います。自分の頭ではよく判らなくても、心で神の導きや働きを痛感し、神の霊に信頼して生きるのがキリスト者の信仰であります。教会はそれをラテン語では、単に神を信ずる (credo Deum) ではなく、credo in Deum (英語ではI believe in God) と、in という前置詞を補って表現しています。ペトロは、つぶやくユダヤ人たちに対する主の神秘な話を、まだ頭では理解できなかったでしょうが、日頃主と生活を共にしていて神の不思議な働きを幾度も体験し、自分の心の中に育って来た意志的信頼心から、本日の福音にありますように、「あなたこそ神の聖者であると、私たちは信じまた知っています」と宣言し、主の御許に留まり続けました。私たちも、このような心の意志的信頼を実践的に養い育て上げつつ、あくまでも神信仰に留まり続け、日々神と共に生きるよう努めましょう。