2009年9月13日日曜日

説教集B年: 2006年9月17日、年間第24主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 50: 5~9a.   Ⅱ. ヤコブ 2: 14~18.  
  Ⅲ. マルコ福音 8: 27~35.


① 本日の第一朗読はイザヤ書からの引用ですが、ご存じのようにイザヤ書は、最初から39節までが紀元前8世紀後半の預言書で第一イザヤ、40章から55章までがバビロン捕囚とその直後頃の預言書で第二イザヤ、56章から最後の66章までが、安息日や神殿などの記事があることから、エルサレム神殿が再建された頃の預言書で第三イザヤと、三つに分けて受け止められています。本日の朗読箇所は、その第二イザヤの中でも、バビロンからの喜ばしい解放についての預言である48章までの前半部分からではなく、エルサレムに帰還した神の民の使命などについての後半部分からの引用で、この後半部分には神の「僕」についての話が中心になっています。従って、本日の朗読もその神の「僕」についての話ですが、カトリック教会はユダヤ教とは異なって、古来この神の「僕」を救い主イエス・キリストと受け止めています。
② 「私は逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ、云々」と続く長い独り言は、預言者個人の体験談かも知れませんが、同時に、いや何よりも救い主イエスのご受難についての預言であると思います。私たち人類を恐ろしい罪の穢れと滅びの道から贖い出すため、耐え忍んで下さった主のご苦難についての預言であります。感謝の心で主のお言葉に耳を傾けると共に、本日の朗読箇所に二度登場する「主なる神が助けて下さる」というお言葉を、心に銘記して置きましょう。私たちはそのような耐え難い苦難に直面すると、自分の弱さや自分の力の限界にだけ目を向け、もうダメだと思い勝ちですが、主はそのような絶望的苦難の時には、何よりも全能の神の現存と助けに心の眼を向け、「私の正しさを認めて下さる方は近くにいます」と心に言い聞かせて、神のその時その時の助けに支えられつつ、受ける苦しみを一つ一つ耐え忍んでおられたのではないでしょうか。この信仰のある心に神の力が働いて、人間の力では不可能のことも可能にしてくれます。いつの日か私たちも死の苦しみを迎える時、主イエスのこの模範に倣い、主と一致してその苦しみを多くの人の救いのために献げるように致しましょう。
③ 本日の第二朗読であるヤコブ書は、様々の具体例をあげて神に対する信仰と愛に基づく行いの重要性を教えていますが、本日の朗読箇所では、その信仰と行いとの関係を手短にまとめていると思います。「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」という言葉は大切です。ただ聖書を研究して神を信じているだけ、あるいは聖堂で敬虔に神に祈るだけに留まっていてはなりません。それによって神から戴いた御言葉の種や神と人に仕える愛の火を、心の奥にしまいこんで蓋をしてしまうと、その貴重な命も火も消えてしまいます。神よりの命は、実生活に生かしてこそ心に根を張り、大きく成長して実を結ぶのであり、愛の火も、日々の実践を積み重ねることによって、次第に輝き始めるのです。
④ しかし、ここで一つ気をつけなければならないのは、その実践は神の御旨に従う心、神の導きに従う心でなされる必要があることです。この世の社会や政治に対する自分の不満や改革熱から、神の言葉や信仰を旗印にして戦っても、人間の考え中心のそんな実践では神の御言葉の命は成長せず、信仰も神が求めておられる愛の実を結ぶことができません。神の言葉を盾にして、自分やこの世のものを愛しているに過ぎないのですから。現代世界の各地には無数の人を犠牲にして止まないテロ活動と、それを圧倒的に勝る武力で一方的に押さえ込もうとする戦争が続いていて、際限なく続く両者の対立抗争から民衆の生活も生命も犠牲にされています。耐え難いこの社会不安に憤慨して、性急な政治批判に走る人たちの気持ちもよく解りますが、しかし、現代世界の秩序を乱している悪の元凶は、何かの合理的政治理論などでは解決できない、もっと遥かに深い心の世界に幅広く根を張りめぐらせているように思われます。人間の考える理論ではなく、神の御旨中心に神の僕・婢として生きようとしている私たちは、平和問題については短絡的にならないよう、慎重でありましょう。平和は、家庭においても社会においても、根本的に心と心との関係の問題であり、各人が自分のこれまでの理念や生き方を相対化して、これほど豊かで多様な世界を創造なされた神に感謝しつつ、それとは違う理念や生き方の人々にも温かく心を開き、共に助け合って生きようする心になる時、神からの恵みとして産まれ出る生き物だと信じます。
⑤ 全ての人の救いを望み、善人にも悪人にも恵みの雨を降らせておられる神は、テロリストの心にもそれに協力させられている人々の心にも、またテロ弾圧に努めている人たちや政治家たちの心にも、世界平和のためにいろいろと形を変えて語りかけておられると信じます。その人たちが皆もっと大きく心を開き、武力ではなく友好的話し合いによって平和への道を見出すよう、神による照らしと導きの恵みを祈りましょう。私たちは毎月一度、極東アジア諸国の平和共存のためにミサを献げて祈っていますが、本日はそのミサの意向を少し広げ、世界平和のため神の特別な導きと助けの恵みを願って、献げることにしたいと思います。この目的でご一緒に祈りましょう。
⑥ 本日の福音に読まれる「あなた方は私を何者だと言うのか」という問いは、主が現代の私たち各人にも投げかけておられる大きな問いだと思います。それは知的な探究だけで答えるべき問いではなく、何よりも私たちの心の信仰や生き方を問題にしている問いではないでしょうか。ペトロは「あなたはメシアです」と正しく答えて、一応是認されましたが、主はすぐに、ご自分のことを誰にも話さないよう戒めておられます。ということは、この返答は形さえ正しく整っておればよい理知的な真理ではなく、各人の心の畑に根を下ろして黙々と成長し、神と魂との絆を太く密なものにして行くべき生きている真理、心の真理であることを示していると思います。主は、私たちも一生かけて私たちなりに自分の心の中にこの生きている真理を育て、神のため人々のために豊かに実を結ぶことを望んでおられるのではないでしょうか。正しい信仰宣言の直後に、主が話されたご自身の受難死と復活についての話に躓き、主から厳しい叱責を頂戴したペトロの前轍を踏むことのないよう、あくまでも謙虚にまた従順に、主の僕・婢として心の真理を育て、勇気をもって自分を捨てつつ、自分に与えられる十字架を背負って主に従うことにより、主のご期待に応えるよう励みましょう。