2009年10月11日日曜日

説教集B年: 2006年10月15日、年間第28主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 智恵の書 7: 7~11.   Ⅱ. ヘブライ 4: 12~13.  
  Ⅲ. マルコ福音 10: 17~30.


① 本日の第一朗読である知恵の書は、旧約時代の末期にエジプトで書かれたと考えられます。アレクサンドロス大王の将軍の一人プトレマイオスは、大王の死後エジプトでギリシャ系の王朝を開きますが、圧倒的に多数のエジプト人に対する支配権を確立するためユダヤ人を招いて歓迎し、数多くのユダヤ人をアレクサンドリアやその他の軍事的要所に住まわせました。それで、エジプトのユダヤ人はギリシャ語を話すようになり、紀元前3世紀後半以降には、エジプト生まれのユダヤ人のため、旧約聖書がギリシャ語に翻訳されました。これが、Septuaginta (七十人訳) と言われるギリシャ語旧約聖書であります。古代のギリシャ人は智恵を、処世術としても人生観としても大切にしていましたが、紀元前6世紀の頃から、科学が台頭し諸技術が発達する傍ら、知者の思索はより思弁的な方向にも向かうようになり、各種の哲学を産み出すようになりました。智恵がギリシャ人の生活を豊かで安全なものに高め、その文化を美しく幸せなものに発展させたのです。そういうギリシャ文化の中で教養を積んだアレクサンドリアのユダヤ人は、信仰に生きる預言者やダビデ、ソロモンたちの心に授けられた神よりの智恵と、人間の体験と思索に基づくギリシャ的知恵との違いを、次第にはっきりと意識するようになったと思います。そういう問題意識の中で神よりの智恵を讃え教えるために執筆されたのが、この智恵の書だと思います。
② 「私は祈った。すると悟りが与えられ、云々」とあるように、神よりの智恵は、人間の体験や思索に基づくものではなく、神から直接に授けられるものであり、この世の金銀・宝石も、またどんな富も、この神よりの智恵に比べれば「無に等しい」と思われるほど貴重なものであります。しかし、「願うと智恵の霊が訪れた」、「智恵と共にすべての善が、私を訪れた。智恵の手の中には量り難い富がある」などの表現から察しますと、神よりの智恵は、すでに人格化されて描かれています。この書の8章や9章には、「智恵は神と親密に交わっており、…万物の主に愛されている」だの、「(神の) 玉座の傍らに座している」などの表現も読まれます。知恵の書のこういう言葉を読みますと、コリント前書1章後半に使徒パウロが書いている「召された者にとっては、キリストは神の力、神の智恵である」という信仰の地盤は、ギリシャ人の智恵との出会いを契機として、すでに旧約末期からユダヤ人信仰者の間に築かれ始めていたように思われます。
③ 主イエスも、ギリシャ文化が広まりつつあったユダヤで、「天地の主である父よ、私はあなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを智恵ある人や賢い人には隠し、小さい者に現して下さいました。そうです。父よ、これはあなたの御心でした」(マタイ11:25~26) と祈ったり、弟子たちに「どんな反対者も対抗できず、反駁もできないような言葉と智恵を、私があなた方に授ける」と約束なさったりして、理知的なこの世の知者・賢者に対する批判的なお言葉を幾つも残しておられます。聖書のこの教えに従って、人間のこの世的経験や思索を最高のものとして、神よりの啓示までも人間理性で批判するようなおこがましい態度は固く慎み、聖母マリアの模範に見習って、幼子のように素直に神の智恵、主イエスの命の種を心の畑に受け入れ、その成長をゆっくりと見守りつつ、神の智恵の内に成長するよう心がけましょう。私たちの心は、神より注がれるこの智恵に生かされる信仰実践を積み重ねることによって、神が私たちに伝えようとしておられる信仰の奥義を悟るのであって、その奥義は、人間理性でどれ程細かくキリスト教を研究してその外殻を明らかにしてみても、知り得ないものだと思います。
④ 本日の第二朗読であるヘブライ書では、ちょうど第一朗読の「智恵」のように、「神の言葉」が人格化されています。「神の言葉は生きており、力を発揮し、…心の思いや考えを見分けることができます」などと述べられていますから。この「神の言葉」も、主イエスを指していると思います。その主は、私たちが日々献げているミサ聖祭の聖体拝領の時、特別に私たち各人の内にお出で下さいます。深い愛と憐れみの御心でお出で下さるのです。主は私たちの心の思いや悩みや望みなどを全て見通しておられる方ですので、くどくどと多く申し上げる必要はありません。全てを主に委ねて、ただ主に対する幼子のように素直な信頼と愛と従順の心を申し上げましょう。主の御言葉の種が、その心にしっかりと根を下ろし、豊かな実を結ぶに到りますように。
⑤ 本日の福音を読むと、いつも懐かしく思い出すエピソードがございます。まだ神学生になって間もない大学一年生の時でしたが、同級の神学生が「なぜ私を善いと言うのか。神お独りの他に善い者はない」という主のお言葉に躓き、これでは自分を善いと言ってはならない、神ではないから、という意味になるのではないか、と言いました。私はそれに答えることができませんでしたが、少し離れた所で私たちの会話を聞いていた指導司祭のトナイク神父がすぐ、「それは、今あなたの前にいるこの私は神ですよ」と、その人に深く考えさせようとなさった主のお言葉なんです、と説明して下さいました。なるほど、こういう謎めいたお言葉の解釈には慎重でなければならないと感心した、今でも忘れ難い思い出の一つです。
⑥ その人は「走り寄り、ひざまずいて尋ねた」のですから、かなり真剣に「永遠の命を受け継ぐ」ための道を求めていたのだと思います。主はそれに対して、「殺すな、姦淫するな、盗むな、奪い取るな、父母を敬え」という、当時のユダヤ人が耳にタコができるほど聞き慣れている、ごく在り来たりの掟を並べて、その道を表現なさいました。それらはいずれも、隣人愛に集約できる掟です。その人は、「先生、そういうことは皆、子供の時から守って来ました」と答え、自分の心はもっと確かな、手ごたえの感じられる道を求めている、という意志表示をしたようです。当時のオリエント地方はある意味で現代によく似た大きな過渡期を迎えていて、それまでの伝統も価値観も根底から揺らぎ崩れつつありましたから、その人の心は自分の受け継いだ財産などにも不安を覚え、何か心を実際に安心させてくれるものを求めていたのかも知れません。そこで主は、その人をしっかりと見つめ、慈しんで、その人の心がまさに手ごたえの感じられるような、一つの新しい道を具体的に教えられました。「行って、持っている物を売って貧しい人たちに与えなさい。あなたは宝を天に持つことになるでしょう。それから来て、私に従いなさい」という道です。
⑦ それは、人間の側では捨て身の大きな決断を必要とする道でしょうが、それだけに、神の大きな祝福をその身に招き、過ぎ去るこの世の富とは比較にならない程の大きな富を天に蓄える道であり、同時に心の欲が産み出して止まない一切の煩わしさから解放されて、心が大きな自由と解放の喜びの内に、身軽に生きるようになる道でもあります。察するに、その人の心はこの世の人生の儚さに悩み、永遠の命に対する憧れを強めていたのだと思います。それで主は、その人の心をその悩みから完全に解放し、喜びをもって自由にのびのびと生きる道をお示しになったのだと思われます。しかし、その人はこの言葉を聞くと忽ち気を落とし、悲しみながら立ち去ってしまいました。「たくさんの財産を持っていたからである」と聖書は説明しています。
⑧ その人が去った後、主は弟子たちを見回しておっしゃいました。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。…金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と。驚いた弟子たちが「それでは、誰が救われるのだろうか」と互いに言い合うと、主は彼らを見つめて、「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」とおっしゃいました。日々ラジオやテレビのニュースを聞いていますと、富や金ほど人の心を束縛するものはないという印象を受けますが、実際富には、人の心を束縛する悪魔の力が密かに隠されているのではないでしょうか。その魔力に心が引き込まれることのないよう、清貧の誓願を宣立している私たちも気をつけましょう。自力に頼らず、神に眼を向け神に頼ってこそ、私たちはその魔力に勝つことができるのです。全てを神に献げて身軽になり、神のお導きのままに清貧に生きようとしていることは、心に自由の喜びと神に対する信頼の安らぎを与えてくれる大きな恵みだと思います。この恵みを失うことのないよう、富や金にはくれぐれも警戒していましょう。清貧の誓願を立てても、金銭や電気などの節約を軽視し、贅沢に支出していた修道者が、後年ひどい病気に何年間も苦しめられて死んでいった例や、召命の恵みを失って寂しく暮らすようになった例を、私は幾つも見聞きしていますから。
⑨ ペトロは主のお言葉を聞くと、「このとおり、私たちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言い出しました。主は、その言葉を喜ばれたのか、ご自身のためまた福音のために全てを捨てて従う者は誰でも、今のこの世で迫害も受けるが、しかし百倍の報いを受け、後の世では永遠の命を受ける、と確約なさいました。主はこのお言葉を、現代の私たちのためにもおっしゃったのだと信じます。事実、私たち修道者はすでにその百倍の報いを受けつつあるように思いますが、いかがでしょうか。この世で受ける迫害についても覚悟していましょう。私たちには、全能の主ご自身から永遠の命も確約されているのですから、恐れることはありません。全てを捨てて喜んで従う、この大胆な心の若さを失わずいるなら、神が導き働いて下さいます。