2009年10月18日日曜日

説教集B年: 2006年10月22日、年間第29主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 53: 10~11.   Ⅱ. ヘブライ 4: 14~16.  
  Ⅲ. マルコ福音 10: 35~45.


① 今日の日曜日は「世界宣教の日」とされていますので、現教皇のこの日に宛てたメッセージにもありますように、世界中の宣教師たちが人々の心を神の愛で「燃え上がらせる」よう、聖霊の恵みを願い求める意向で、本日のミサ聖祭を献げたいと思います。ごいっしょにお祈り下さい。
② 本日の第一朗読であるイザヤ書53章は、「主の僕の歌」または「苦難の僕の歌」と言われており、その僕が誰を指しているかについて、ユダヤ教ではバビロン捕囚のイスラエルの民を指すと解釈しています。その子孫であるユダヤ人も、エルサレム滅亡後の2千年近い歴史を振り返ると、世界の各地で繰り返しひどい差別扱いや迫害を受けていて、まさに「苦難の僕」のような歴史を営んで来ているように思います。しかし、キリスト教ではその僕を主イエスご自身と受け止めており、イザヤ預言者は、主の受難死を数百年も前にはっきりと予見し、見たままに予言したのだと思います。実際、この53章に描かれている苦難は、四福音書の主の受難記と照合すると、よく適合しているように思われるからです。本日の朗読箇所にあるように、主イエスは「多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を背負った」のであり、神のお望みに従って打ち砕かれ、「自らを償いの献げ物とした」のです。
③ 本日の第二朗読であるヘブライ書は、かつて律法学者でもあった使徒パウロが、ユダヤ人宛てに書いたものと考えられていた時代もありました。3世紀のアレクサンドリアの聖クレメンスがそのように考え、パウロが自分の名をつけなかったのは、自分に対して強い反感を抱いているユダヤ人がいたからであろう、と推察しているからです。しかし、聖書の研究が進むにつれ、ヘブライ書はパウロの作ではないと考えられるようになりました。すでに16世紀のルッターが、旧約聖書に基づく論証のやり方や力強い筆致などからの推察でしょうか、『使徒の宣教』やコリント前書に登場するアポロの作と考えたそうですが、近年の聖書学者たちは、パウロたちの没後、エルサレム神殿も破壊されて無く、絶対的権威であった旧約聖書をどう理解したらよいかに迷って、心を大きく動揺させていたユダヤ人キリスト者たちに宛てた、1世紀末葉の誰かの作と考えています。本書が「神殿」という言葉を避け、祭司たちが神を礼拝した場を一貫して「幕屋」と記していることも、注目に値します。エルサレム神殿が無くなって動揺している人々の心を鎮めるために書かれたからではないでしょうか。
④ 旧約聖書の多くの話がメシアの到来を約束しており、その約束通りにナザレのイエスが生活なされたことを説明した後の、一つの結びである本日の朗読箇所では、偉大な大祭司、神の子イエスによって神の憐れみと恵みを受ける道が開かれたのですから、「大胆に恵みの座に近づこう」という呼びかけがなされています。この大祭司は私たちの弱さを共に苦しむことのできない方ではなく、罪を別にすれば、全てについて私たちと同様に試練に遭われた方なのです。しかし、自分中心に考える自然理性に従って大胆に神の恵みの座に近づこうとしても、失敗し挫折すると思います。それは、先週の日曜日にも話した、この世の文明文化を大きく発展させたギリシャ人の智恵ではありますが、神に近づくのには、それだけでは足りません。心に神から授かった信仰を基盤として考えるという、もう一つのもっと大切な智恵が絶対に必要なのです。ですから本日の朗読箇所にも、「私たちが公に表明している信仰をしっかりと保とうではありませんか」という呼びかけが、先になされているのです。私は大学でキリスト教思想を教えていた時、理知的な自然理性だけで考えるのを「頭で考える」、心に授かった信仰に基づいて考えるのを「心で考える」と表現していましたが、聖母マリアも主イエスも、現実生活に対処して、いつも神に心の眼を向けながら心で考え、心を込めて祈っておられたのではないか、とお察し申し上げています。それが、『智恵の書』が力説している、神よりの智恵に生きる道だと思います。私たちもその道を通って、大胆に神の恵みの座に近づくよう心がけましょう。
⑤ 本日の福音のすぐ前のパラグラフには、イエスが先頭に立ってエルサレムへと進まれるので、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れを抱いた、とあります。エルサレムではユダヤ人指導層がイエスを捕らえて殺そうとしていたからです。そこで主は12使徒たちをそばに呼び寄せて、第三番目の受難予告をなさいました。弟子たちはその話をまだよく理解できなかったようですが、でもいよいよ主の身の上に何か決定的な出来事が迫って来ているようだ、しかし、主が最後にいつも、「三日の後に復活する」という予言を添えておられることから察すると、ユダヤ人指導層との戦いで、主は死んでも間もなく復活して最後の勝利を獲得し、ユダヤは力強いメシアが支配する王国になるのかも知れないなどと、一部の使徒たちは、主の予言の言葉をそのように受け止めたのかも知れません。そこで、本日の福音にあるゼベダイの子ヤコブとヨハネは、他の弟子たちに先駆けて主に近づき、「あなたが栄光を得られた時」一人は右に、一人は左に座らせて下さいという、大胆な願いを申し上げたのだと思います。マタイ福音書には、二人は一行に伴って来ていた母と一緒に主に近づいてひれ伏し、母の願いという形で、主に願い出たように記されています。手柄を競い合っていたと思われる他の弟子たちに配慮して、そのようにしたのかも知れません。
⑥ 主はその二人に、「あなた方は自分が何を願っているか、わかっていない。この私が飲む杯を飲み、私が受ける洗礼を受けることができるか」と、お尋ねになります。これまで目撃した数々の奇跡から主の勝利を確信していたと思われる二人は、すぐに「できます」と答えましたが、主は「確かに、あなた方は私が飲む杯を飲み、私が受ける洗礼を受けることになるが、しかし、私の右や左に誰が座るかは、私の決めることではない」とお答えになって、彼らの願いを退けられます。この場面を傍らで見ていた他の10人の使徒たちが、後で二人に立腹したことは、想像するに難くありません。そこで主は、彼らを呼び集めて、次のように諭されました。「あなたたちも知っているように、異邦人の支配者と見做されている者たちは民を(上から)支配し、尊大な者たちは権力を振るっている。しかし、あなた方の間では、そうではない。偉くなりたい者は皆に仕える者になり、一番上になりたい者は皆の奴隷になりなさい。なぜなら、人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また自分の命を多くの人の身代金として献げるために来たのだから。」
⑦ 将来の教会の中核を構成するために選出された使徒たちへのこのお言葉から考えますと、神によって呼び集められ、主キリストを頭とする一つ共同体となる教会は、一般社会の政治組織や営利団体などとは異質の、いわば家族的奉仕的な愛の共同体であり、一つの有機的からだなのです。その中核をなす使徒とその後継者たちは、教会の頭であられる主キリストを体現し、キリストのように自分を多くの人の罪を背負う「神の僕」となし、自分を人々の罪を償う献げ物としなさいというのが、主の教えであるように思われます。ちょうど病気の子供たちを何人も抱えた親たちが、一家の将来を担うその子らに対する愛ゆえに、身を粉にして働いたり世話したりするように、神の愛の大きな家族的共同体の指導者たちも、神から自分に委ねられた人たちの世話に挺身しなければならないのだと思います。イザヤ書53章に「自らを償いの献げ物とした」とある言葉を、主はここで「自分の命を多くの人の身代金として献げる」と言い替えて話されたのだと思われますが、身代金は、当時は戦争の捕虜や奴隷などを釈放させるために支払われた金を指していました。教会の聖役者たちも、皆に仕えるために神から召された存在であり、主に倣って自分の命を人々の身代金となす覚悟も持っていなければならない、と主は今も私たちに説いておられるように思われます。主が創立なされた教会は、ギリシャ的智恵が主導権を持つこの世の国家や市民団体、あるいは会社などの営利団体とは本質的に異なる、神の愛の共同体であることを、しっかりと心に銘記しながら本日のミサ聖祭を献げましょう。