2009年10月25日日曜日

説教集B年: 2006年10月29日、年間第30主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. エレミヤ 31: 7~9.   Ⅱ. ヘブライ 5: 1~6.  
  Ⅲ. マルコ福音 10: 46~52.


① 本日の第一朗読は、旧約の神の民の数々の罪を暴き、嘆きながら神よりの警告を語ることの多かったエレミヤ預言者の言葉からの引用ですが、この預言書の31章は神との新しい契約について予告していて、エレミヤ書の中でも、将来に対する大きな希望を与えている最も喜ばしい箇所だと思います。紀元前10世紀に南北二つの王国に分裂した神の民のうち、北イスラエル王国は紀元前720年にアッシリア帝国に滅ぼされてしまい、そこに住んでいた住民はアッシリアに強制連行されて、各地に分散させられてしまいました。残酷なアッシリア人によるこの征服と連行の過程で、命を失った者や異教徒になってしまった者たちは多かったと思われますが、しかし、この時アッシリアに連行された人々が皆信仰を失ってしまったのではないようです。
② それから100年余りを経て神の言葉を受けたエレミヤは、ここで信仰を失わずにいるその人々のことを「イスラエルの残りの者たち」と呼んで、その人々を救ってくれるように祈ることを、神から命じられており、そして神は、「見よ、私は彼らを北の国から連れ戻し、地の果てから呼び集める」という、嬉しい約束の言葉を話しておられます。「北の国」とあるのは、アッシリアの支配地だと思います。神は更に、「私はイスラエルの父となり、エフライムは私の長子となる」と約束しておられますが、ここで「エフライム」とあるのは、エジプトで宰相となったヨゼフの子の名前で、その子孫である北王国の中心的部族の名でもあり、総じてアッシリアに連行されたイスラエル人たちを指していると思います。彼らも新たに神の子らとされて、メシアによる福音の恵みに浴することを、神が予告しておられるのではないでしょうか。
③ 本日の第二朗読は、神の御独り子がこの世の人間の弱さを身にまとって受肉なされたこと、そして全ての人間の中から選ばれ、民のためにもご自身のためにも、その弱さ故に苦しみつつ罪の贖いの供え物を献げるよう、神から任命されたのであることを教えています。人々のために神に仕えるこの光栄ある大祭司の職務は、自分で獲得するものではなく、神から召されて受けるものであることも説かれています。祭司の職務に限らず、英語では職業のことをヴォケーションと呼んだり、コーリングと呼んだりしていますが、いずれもラテン語あるいは英語の「呼ぶ」という動詞から派生した名詞で、その背後には、神からこの仕事に呼ばれているのだ、という敬虔なカルヴィン派の思想があると思います。昔の日本人も自分のなしている仕事を、天から授けられた使命と考えて「天職」と呼んでいましたが、近年汚職事件が多発しているのを見聞きしますと、現代社会にこのような宗教的職業観を広める必要性を痛感致します。人々の上にそのための照らしの恵みを神に祈るだけではなく、私たち自身も平凡な日常生活の中で、日々そういう職業観や天から見守られているという仕事思想を実践的に体現し、証しするよう心がけましょう。神はそのようにして信仰に生きる人を求めておられ、その人を介して豊かな恵みを現代の人々に注ごうとしておられると信じます。
④ 本日の福音は、主がバルティマイという盲人の目を癒された一つの奇跡物語ですが、マルコは主によるその癒しの奇跡よりも、その前後のバルティマイの言行の方に読者の関心を向けようとしているように見えます。というのは、原文のギリシャ語ではここに二度登場している「道」という言葉に、わざわざ冠詞をつけて「その道」と書いているからです。乞食の盲人はまず「その道の傍らに座っていたのです」。ここで「その道」とあるのは、その少し前の文脈を読んでみますと、先週の日曜日にも申しましたように、主がエルサレム目指して進んで行かれる道であり、その途上でエルサレムでの受難死を三度目に予告なされた、いわば十字架への道であります。その道の傍らにいる盲人に、主はご自身から言葉をかけるようなことはなさいませんでした。しかし、一行の通り過ぎる物音から、それがナザレのイエスのお通りと聞いて、盲人が「ダビデの子イエスよ、私を憐れんで下さい」と叫び始めたのです。多くの人が彼を叱りつけ、黙らせようとしますと、彼はますます「ダビデの子イエスよ、私を憐れんで下さい」と叫び続けました。
⑤ それで主は立ち止まり、「あの男を呼んで来なさい」と言われたのです。人々が盲人を呼んで、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」というと、盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がって主イエスの御許に来ました。上着を捨てたことは、自分のそれまでの持ち物を捨て、無一物になって主の御許に来たことを意味していると思います。マルコがここで、叫び続けたバルティマイに対する主の方からのお呼びにも、フォーネオーというギリシャ語の動詞を三度も使って、「呼んで来なさい」「呼んで言った」「お呼びだ」などと書いていることも、注目に値します。それは少し力を込めて呼ぶという意味合いの動詞のようですから、マルコによると、主も弟子たちも、少し離れ去った所から大きな声で、バルティマイをお呼びになったのではないでしょうか。躍り上がって御許に来た盲人に、主が「何をして欲しいのか」とお尋ねになると、「ラビ、目が見えるように」と答えたので、主はすぐに癒し、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」と言われました。ギリシャ語原文によりますと、その人は「その道を彼 (すなわち主) に従った」と続いていて、マルコはここでも冠詞をつけ「その道」と書いています。エルサレムを間近にした最後の旅の途中でなされた盲人の癒しというこの奇跡を、主が、ご自身の受難死に対する弟子たちの心の盲目の癒しのため、という願いを込めてなされたかのように。
⑥ 余談になりますが、私は先週の月曜日に三ケ日から帰った後、午後に西日本の老人修道女ばかりのようなある修道院で、皆の生活を統括する世話をしている私よりも年上の修道女から、名古屋駅でゆっくりとその苦労話を聴き、その相談に乗る機会に恵まれました。その人の話によると、それまで何十年間も人並みに大過なく修道生活を続けて来た人なのに、年老いてから急に妬み深くなり、修友たちを困らすようなことを言ったりしたりする人もいるのだそうです。それはそれ程驚くほどのことではありません。人間は面白いもので、どんな人にも「善悪二つの心」「二つの顔」などと言われるものがあります。人の心の中には、男性的と女性的との二つの要素がちょうど夫婦のように連れ立って存在しているのではないでしょうか。両者が互いに助け合い補い合って平和に協調している心は仕合せだと思いますが、片方だけが長年上に立ってワンマン的に振舞い、外の人に善い顔を見せようと一生懸命になっていると、その陰にあるもう一つの心が抑圧され続けて、気晴らしする機会にも恵まれず、心の奥底に深く根を伸ばし、欲求不満で反抗に傾き、強くなっていることがあり得ます。こうして二つの心の間に適度の交流がないまま、一つの理念だけで生きていますと、年老いたり、あるいは何かのことで落胆したりしてこれまで上に立っていた心の抑圧が弱まった時、抑圧され続けて来たもう一つの心が表面に躍り出て、憂さ晴らしのようなことを始めるのではないでしょうか。それで私はその修道女に、そういう言動を示す人には、まともに付き合わずに、少し距離を置いてでも良いですから、心配せずにあくまでも温かく親切にしていて下さい、そしてその人の心の奥には、もう一つの善い心が潜んでいて、自分のわがままな言行について詫びたり、悔い改めてもっと強くなろうとしたりしていることを信じ、その善い心の方に眼をかけていて下さい、と勧めました。
⑦ このような二つの心の葛藤は、聖人たちであっても多かれ少なかれ体験していると思います。使徒パウロも、ローマ書7章の後半に、自分の心の中でのそのような葛藤体験について述懐しています。「私は内なる人に従って神の律法を喜んでいますが、しかし、私の五体の中には別のノモス (原理) もあって、…それが私をとりこにしていることが分ります」などと書いていますから。私たちも、自分の内にある二つの心、二つの顔というものに常々配慮し、心のこの裏表二つの側面が相互によく話し合いながら、バランスよく生きるように、そしてやがては二つの顔がどちらも、それぞれ主キリストにおいて互いによく似た美しい顔になるよう心がけましょう。聖人たちは皆その内的平和協調に努めていたので、やがてはいつどの角度から見られても、いつも同じ一つの優しい顔に見えていたように思います。これが、心の奥にいつまでもストレスを蓄積することのない、最も仕合せな生き方だと信じます。私たち各人の上にその恵みを祈り求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。