2016年7月24日日曜日

説教集C2013年:2013年間第17主日(三ケ日)

第1朗読 創世記 18章20~32節
第2朗読 コロサイの信徒への手紙 2章12~14節
福音朗読 ルカによる福音書 11章1~13節

   本日の第一朗読の始めには、「ソドムとゴモラの罪は非常に重い」という神のお言葉があって、罪悪を忌み嫌われる神がそれらの町々を滅ぼそうとしておられる御決意が、朗読箇所全体の雰囲気を圧しているように感じられます。4千年近い、3千数百年前の出来事についての伝えですが、神は現代世界に対しても同様の憂慮と決意を抱いておられるのではないでしょうか。ソドムとゴモラの罪をはるかに凌ぐ罪悪が日々横行し、万物の創造主であられる神を無視し悲しませるような、自然界の汚染が急速に、しかも大規模に進行しているからです。人類の人口は2030年に80億、2050年に90億などと予測されていますが、産業革命と共に始まった地球の温暖化が、節度を厳しく守ろうとしない人間の欲望によってますます進行し、異常気象による農作物の減少や農地の砂漠化、氷河の溶解などの現象が深刻になりつつあります。国連の「気象変動に関する政府間パネル (IPCC)」の報告では、このままの状態が続くと、2050年には世界の飢餓人口が1千万人、水不足に悩む人が10億人に増え、その後はもっと恐ろしい事態が発生するであろう、などと警告されています。

   今から9百年ほど前のアイルランドには、古都アーマーの大司教であったマラキという預言者が住んでいました。1139年に初めてローマを訪れた時、その往復の途次クレルボー修道院に滞在して聖ベルナルド修道院長と親交を結んでいましたが、1148年に再度ローマ教皇に会うため旅行をした時に、クレルボーで激しい熱病を病み、ベルナルド院長に看取られて亡くなりました。54歳でした。マラキ大司教がこの時ローマ教皇に手渡そうとしていた一枚の紙には、1143年に教皇になったチエレスティーヌス2世から世の終わりまでの全ての教皇の特性が、ラテン語でごく短く数語で表記されており、聖ベルナルドからその預言書を受け取ったローマ教皇庁は、それを門外不出の極秘文書として保管していました。しかし、印刷術が発明されて普及した16世紀の終り頃に出版された『生命の木』と題するラテン語の著書の末尾に、その予言の全文が公刊されてしまいました。それを読んだ歴史家たちは、驚いたと思います。それまでの数十人の教皇たちの特性が皆、ある意味でよく表現されていたからです。私がこの預言書を知ったのは、終戦後間もない神学生時代でしたが、次の教皇即ちヨハネ23世はPator et nauta(牧者と船乗り) となっていて、この教皇の時代に教会はヨーロッパの司牧中心主義から脱皮して、海外の諸宗教にも大きく心を開いた全人類の宗教になるのではなかろうか、などと推測されていました。公会議開催の動きが報道された時、私はなる程と思いました。ヨハネ・パウロ2世については、de labore Solis(太陽の働きで)と予言されていたので、私が神学生であった頃には、この教皇の下でカトリック教会が全世界に広まるのではなかろうか、などと噂されていました。しかし事実は少し違って、この教皇が韓国や日本にまでも旅行なされたことを意味していたようです。

   その次のベネディクト16世については、Gloria olivae(オリーブの栄光)と予言されていて、私たちはオリーブは殉教者と関係が深いので、この教皇は殉教するのではなかろうか、などと噂していました。この教皇は栄光の座にあって、優れた神学者として立派な働きをなさいましたが、しかし、登位なされて間もなくに世界各国での聖職者たちのセクハラが次々と露見し、保守的な教皇に対するマスコミの攻撃も激しさを増して、高齢のためにも教皇としての激務を続けられなくなり、遂に引退なされました。その次の現教皇についてはPetrus Romanus(ローマ人ペトロ)と記されており、初代のローマ司教ペトロのように、ヨーロッパ大陸からは遠く離れた他の大陸の庶民層出身の人が教皇になりましたが、マラキの預言によりますとこの人が最後のローマ教皇で、多くの苦難の中で司牧しますが、この教皇の時に七つの丘の町(即ちローマの町)は崩壊し、最後の審判が始まるとされています。と申しますと、この預言に従うなら今の私たちは既に世の終わり直前の時代に生きており、神が人間中心主義の罪で穢れたこの世の全てに恐ろしい苦難を与えてその全ての罪を償わせ、復活した主キリストの栄光に参与して輝く新しい世界に産まれ変わらせる時は、既に間近に来ており、今私たちの祝っている「信仰年」は、その苦難の時に備えて信仰・希望・愛に生きる心を整えて置くようにと、神の摂理が私たちにお与えになった特別の修練期間なのかも知れません。目覚しく発展しつつある今の世界の豊かさを謳歌する人たちの多くは、まだ世の終わりには成りそうでないと思うと思いますが、終末は全く突然に訪れる死のようなもので、豊かに発展しつつあった二千年前のエルサレムの町が、突然ローマの大軍に包囲されて人が住めない程の徹底的廃墟と化したように到来するようです。「その日その時は誰も予測できない」という主のお言葉もあります。その日に聖母マリアや主の導き・助けを受けることができるよう、今から心を備えて置きましょう。

   本日の福音の中で弟子の一人が、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えて下さい」と願うと、主は「祈る時にはこう言いなさい」とおっしゃって、「父よ、あなたの御名が聖とされますように」という言葉で始まる祈りを教えて下さいました。これが、主が教えて下さった本来の「主の祈り」であると思います。マタイが主のお言葉を総合的に手際よくまとめた山上の説教の中では、「天におられる私たちの父よ、御名が聖とされますように」という言葉で「主の祈り」が始まっていますが、これは、初代教会が主から教わった祈りを集会の儀式用に多少補い変更させた祈りであろうと言われています。しかし、どちらの祈りでも、「御名が聖とされますように」という言葉が真っ先に置かれていることは大切だと思います。「聖とされる」という言葉は日本人には解り難いという理由で、プロテスタント諸派でもカトリックでも、この言葉は明治時代から「崇められますように」や「尊まれますように」などと訳し変えられ、宗教儀式でもそのように唱えられていましたが、これは主が唱えるようにとお命じになった祈りの言葉を、人間の考えによって別の意味の言葉に変えて唱えることになり、主のお望みに反することになると恐れます。主は「祈る時には、こう言いなさい」とお命じになったのですから。
   私は司祭叙階後にヨーロッパに留学しましたら、西欧諸国の言語にこの言葉がどこの国でも、「聖とされる」と翻訳されて使われているのを体験し、日本語訳が原文と違っているのが気になってなりませんでした。幸い十数年前から日本の聖公会とカトリック教会とが共同で、儀式の時に唱える「主の祈り」に「御名が聖とされますように」という邦訳を導入してくれましたので、今は感謝し喜んでいます。この祈りは主が教えて下さったという意味だけではなく、主ご自身が私たちと一緒に唱えて下さるという意味でも「主の祈り」であり、その言葉を私たち人間の考えや分り易さを中心にして変更することは、父なる神の聖さがこの世においても讃えられるようにと切に願っておられる、主のお望みに反するのではないでしょうか。

   「聖」という価値観は、真・善・美などのこの世の人間社会でも通用する価値観とは違って、本来神中心主義の美しさに輝いているようなあの世的聖さの価値観であり、この世の人間には解り難い価値観であります。主がそれを御承知の上で、あえて「御名が聖とされますように」という祈りを真っ先に唱えるようにとお命じになったのは、主と一致して度々そのように唱えている内に、私たちの心があの世的価値観に慣れ親しみ、聖霊の働きによってその価値観を正しく解るようになるからではないでしょうか。またこの言葉に続く幾つかの祈りは、全てこの最初の祈り一つに集約されるからでもあると思います。自分の考えを中心に据えて生きる人の多い「古いアダム」の罪がはびこっているこの穢れた被造物界に、父なる神中心に徹底的従順に生きる新しい神の愛の聖さを聖霊の働きによって根付かせ広めて行こうというのが、人間イエスの一番大きな願いであり、神の御国の広まりも日毎の糧の恵みも、他の全ては皆そのための手段に過ぎないように思われます。


   私たちの人間理性はこの世の事物を理解する能力ですので、神中心主義の愛の美しさに輝くその聖さを理解することも、自分の力で獲得することもできません。いや、宇宙万物の創造主を「父」とお呼びする大胆な愛を身につけることもできないと思います。しかし、主のお言葉に従い主と一致してそのように祈っていますと、主も私たちの心の中で一緒に祈って下さり、聖霊がその心の中で働いて、私たちに神の聖さを解らせて下さるのではないでしょうか。私たちの霊魂は、まだ心の奥に残っている、全てを自分中心に考える古いアダムの穢れた精神を、少なくとも死後あの世の浄めの火で徹底的に焼き尽くし、己を無にして神の御旨中心に生きる存在に変革されて、神中心の超自然的聖さに輝き始めない限り、諸聖人たちのいる天国には入れてもらえないと思います。私たちも諸聖人たちの模範に倣って、この世に生活する時から主の提供しておられるあの世的聖さを体得し、皆聖人になるよう努めましょう。察するに、日々御ミサの度毎にこの祭壇にお出で下さる御復活の主イエスは、今も毎日「父よ、御名が聖とされますように」と天の父なる神に祈っておられ、私たちがその祈りを唱える時、主も私たちの内で一緒に唱え、父なる神に捧げておられるのではないでしょうか。主の現存を信じつつ、主と御一緒に「主の祈り」を唱えるよう心掛けましょう。