2016年7月3日日曜日

説教集C2013年:2013年間第14主日(三ケ日)

第1朗読 イザヤ書 66章10~14c節
第2朗読 ガラテヤの信徒への手紙 6章14~18節
福音朗読 ルカによる福音書 10章1~12、17~20節

①本日の第二朗読の中で、使徒パウロは、「主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」、「大切なのは、新しく創造されることです」などと述べていますが、続いて「私は、イエスの焼印を身に受けているのです」とある言葉は、焼印を押されて主人の持ち物とされ、主人の考え通りに働く古代の奴隷たちを連想させます。使徒パウロは、それ程に全身全霊をあげて神の子イエスの内的奴隷となり、神中心に生きる「神の子」という新しい被造物に創造されることに、心を打ち込んでいたのだと思われます。古代の奴隷や奴隷女は、いつも自分の所有者である主人の考えや言葉に心を向け、その考えに従って行動し働こうとしている存在であって、自分の考えや自分の解釈、あるいは自分の望みのままに行動する自由は持っていませんでした。外的には自由のない可哀そうな存在と思われるかも知れませんが、しかし、その主人が愛深い牧者のような人である場合は、我なしのその従順によって主人から実に多くのことを実践的に学び取り、能力も磨かれ鍛えられて幸せに生きることができました。使徒パウロは、そういう主人・主キリストの奴隷として生きることに、大きな喜びと感謝を見出していたのだと思います。私たちも、その模範に倣うよう心がけましょう。
②戦後数十年間も自由主義と個人主義の教育が続きましたら、日頃他者と一緒に助け合い励まし合って、不便を忍び困難に打ち克って生きるという体験をしたことがなく、極度の便利さの中で自分独りで全てを利用しながら生きているために、自分のその気ままと個人主義が無視され否定されたと思うような言行に出会うと、途端に自分が否定されたと受け止めて怒り出す、いわゆる「キレる」人間が多くなって来たように思われます。その人たちは、孤独な過敏さと被害者感覚が心の奥に蓄積されていて、考える知能や機器を操作する技能はしっかりしていても、心が個人主義一つに立て篭もっているために落ち着きがなく、自分の思い通りにならない現実に直面すると、心の衝動をコントロールすることが出来なくて、極度に苦しむのではないでしょうか。
③こういう人たちは社会にとって真に迷惑な困った存在ですが、本人たち自身も自分の心を持て余し、半分捨て鉢になって苦しんでいるのかも知れません。私は現代のキレる人たちをその心から救う道は、神を信奉すること以外にないと考えます。現代は国家も社会も家族も極度に多様化しつつあり、内面から分裂し分散する動きを示していて、個人主義の極限で苦しむ人の心を癒したり、その苦悩から救い上げたりすることは期待できないからです。美空ひばりが「川の流れのように」を歌った昭和最晩年の頃からは、島国日本の社会にも、地球規模のグロバール社会の色彩がそれまでよりも遥かに濃くなって来て、日本社会はもう一本の川の流れのように動いているのではなく、地球規模の様々な海流に揉まれながら動いているように見えます。外的にはまだ日本人が主導権を握っていますが、しかし社会の流れはもう川ではなく、様々な汚れや塩分や毒物を巻き込んでいる海水の流れになっています。海ではあらゆる分野で世界各国の異変の影響を大きく受けますし、これまで経験して来なかった深みに潜む深層水の流れにも配慮しなければならない、という不安もあると思います。
④捉えようがない程のこの不安に、人々の心が目覚め始めたからなのでしょうか、21世紀の初め頃からは各個人の心の安定のため、オーム真理教のサリン事件などで宗教に背を向けていた若者たちの間でも、再び神信仰に対する関心が目覚めて来たようです。でも、その関心は宗教教団に対する関心ではなく、神信仰に基づく各個人の心の内観や、自己決定や自己責任などを重視する、自分の心の内的刷新に対する関心のようです。宗教集団には様々の古い法規や組織が居座っていて、そんな堅苦しいものに束縛されることを嫌っているのかも知れません。形は個人的であっても、真の神を信奉することが孤独と不安に悩む現代人を、新たな形で主キリストによる救いヘと導いてくれると信じます。主からのその恵みと、聖霊の御導きとを、孤独に苦しむ多くの現代人の上に祈り求めたいと思います。出身地も教育も大きく異なる人たちが、深刻な不安の内に自分中心に生きようとする心を改め、謙虚に神を信奉し神の新たな導きに従う心で、相互に結ばれ助け合うことを、神も現代社会に生きる人たちから望んでおられるのではないでしょうか。
⑤本日の福音には、「どこかの家に入ったら、まずこの家に平和があるようにと言いなさい。平和の子がそこにいるなら、あなた方の願う平和はその人の上に留まる。もしいなければ、その平和はあなた方に戻って来る」という主のお言葉があります。各人の思想も関心も極度に多様化しつつある現代のグローバル社会においては、このお言葉は大切だと思います。ここで「平和」と邦訳されている言葉シャロームは、「平安」と理解してもよいと思います。私の今いる神言神学院にはアジア・アフリカ・ヨーロッパ・アメリカの10ケ国人が一緒に生活していますが、年齢差もあって日本人同志であっても、お互いに話し相手のことはある限られた範囲までしか分りません。でも、互いに相手のことを詳しく知らなくても、仲良く一緒に祈り一緒に食事をし一緒に働くことはできます。お互いに主の平安が相手の心にあるようにと祈っていれば、主ご自身が私たちの中で働いて下さいます。主が唱えるようにとお命じになったこの祈りは、少しも無駄になりません。相手の心がその平安を受け入れなければ、その平安は自分の心に返し与えられるのですから。主は、本日の福音にあるように七十二人の弟子たちを派遣なされた時だけではなく、マタイ10章では十二使徒を選んで派遣なされた時にも、全く同じようにお命じになっておられます。それで私は、使徒や弟子たちが主から命じられたこの言葉を唱える時、その瞬間に神なる主がそこに現存して彼らは霊的に主の器・道具となり、主ご自身が彼らを通してそこにお働き下さり、人々に恵みを与えて下さるのだ、と受け止めています。聖書によりますと、主から派遣された彼らは、外的には主から遠く離れていても、病人を癒したり悪霊を追い出したりしていますが、それは主のお言葉に従って実践した彼らを介して、主が霊的に現存し働いて下さったからだと思います。

⑥その同じ主は、死ぬことのないあの世の命に復活なされて、今は私たちと共におられます。私たちも主のお言葉を信じて同じように実行してみましょう。主は私たちを通してもお働き下さいます。主はまた別の時に弟子たちに、あなた方はこのように祈りなさいとお命じになって、「主の祈り」を教えて下さいました。私は、主のご命令に従ってこの祈りを唱える時も、主がその瞬間に私たちの中に霊的に現存されて、私たちと共に天の御父に祈って下さるのだと信じています。私たちはミサの中でも、ロザリオの祈りの時にも、この祈りを唱えますが、その時主が私たちと一緒に祈っておられるのだ、という信仰に生きるよう心がけましょう。すると主が実際に私たちの内にも、また周囲の人たちのためにも善い働きを為して下さいます。これは、現代のような終末の世の不安に揉まれて生活する時代には、非常に大切な「人生の秘訣」であると思います。