2010年8月22日日曜日

説教集C年: 2007年8月25日 (日)、2007年間第21主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 66: 18~21. Ⅱ. ヘブライ 12: 5~7, 11~13.
     Ⅱ. ルカ福音書 13: 22~30.


① 本日の第二朗読には「主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。あなた方は、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなた方を子として取り扱っています。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか」という、私たちキリスト者を「神の子供」と考えているような勧めの言葉が読まれます。

② 戦後暫く経ってから「めだかの学校」という歌が流行り、戦前の「雀の学校」とは対照的に違うその歌詞の故に話題になりましたが、しかし、各個人の自由だけを謳歌するその「めだかの学校」を愛唱しながら育ち、頭の能力や理知的技術能力を早く開発して競わせる教育を受けた人たちの中には、心を鍛える厳しい教育に不足し勝ちであったため、大人になっても心の本当の底力が眠ったままで、心に宿る欲情をバランスよく統御することができない人や、酒・タバコ・ギャンブル・麻薬・万引き等々に対する様々な依存症や、登校拒否・家出・うつ病などに悩む人たちが少なくないようです。70年前の日本にもそのような人たちは少しはいたようですが、現代はそれとは全く比較できない程激増しています。各人の知的能力の発達に比べると、奥底の心の力、すなわち無意識界の底力があまりにも脆弱で、見えない内に疲れやストレスを心の中に溜めている所に、その根本的原因があると私は考えています。

③ この世の能力主義一辺倒に傾いている現代の育児教育に反対して来た私は、40年ほど前から、親しくなった若い夫婦たちに「愛をもって叱る」という心の教育も部分的に必要であることを説き、二歳、三歳位の幼児を20人ほども厳しく叱って泣かせたことがありますが、私に叱られて大きくなった子供たちは、後年私が会って知っている限りでは、比較的素直に育って、親にも先生にもほとんど心配をかけない人間になっているように思います。父なる神も、主キリストにおいて神の子とされた信仰者たちを愛すればこそ、そのような心の底から生きる積極的愛の人、すなわち心の底に宿る神の愛に生かされて生きる人にしようと厳しく鍛え、主キリストが実践なされた神に対する従順と忍耐を身につけさせようとなされるのではないでしょうか。神によるその鍛錬を嫌がらず、どれほど苦しめられ鍛えられても落胆しないよう努めましょう。オリンピックに活躍している選手たちは、私たちの想像を絶するほどの厳しい訓練や指導に耐えて、心の底力を磨いています。その努力を積み上げて高度の技を発揮するようになったからこそ、多くの人の中から選ばれるに到ったのではないでしょうか。神ご自身によって、もっと遥かに大きな永遠の栄誉を受けるよう召されている私たちも、その人たちの努力に負けてはならないと思います。

④ 2千年前に主イエスが、また聖母マリアが歩まれた、心の奥底に宿る神の愛・神の聖霊に生かされて生きる信仰生活と、同じ頃のファリサイ派ユダヤ人たちの信仰生活との違いも心得ていましょう。善意からではありますが、当時のファリサイ派ユダヤ人たちは、自分たちの頭に宿るこの世の人間理性を中心にしてあの世の神の言葉(聖書) を解釈し、その解釈に基づいて生活していました。彼らは自分の力によってこの世からあの世の神に近づこうと、競うようにして熱心に努力していたと思われます。500年前、450年前頃のプロテスタント宗教改革者たちも、一心に神の助けを祈り求めながら、近代人的な頭の理性、人間社会の力に頼って、基本的にはほぼ同様の人間主導の精神で、あの世の神のためこの世の教会を改革しようと励んでいました。彼らはいずれもその努力によってそれなりの成果を残してはいますが、しかしそれは、奥底の心に宿る神の霊に従い、神の僕・神の婢として自分というものに死し、あの世の神の御旨だけを中心にして生きておられた主イエスや聖母マリアの生き方ではないと思います。

⑤ 本日の福音の始めには、「イエスは、……エルサレムに向かって進んでおられた」という言葉が読まれますが、ルカは既に9章51節に「イエスは天に上げられる時が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」と書いており、それ以降19章後半のエルサレム入城までの出来事を、受難死目指して歩まれた主の最後の旅行中のこととして描いていますので、ルカ13章に読まれる本日の福音も、死を覚悟であくまでも主に従って行くか否かの、緊張した雰囲気が弟子たちの間に広がり始めていた状況での話であると思われます。ある人から「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と尋ねられた主は、そこにいた弟子たちと民衆一同に向かって、「狭い戸口から入るように努めなさい。云々」とおっしゃいました。その最後に話されたお言葉から察すると、東西南北から大勢の人が来て「神の国で宴会の席に着く」のですから、救われる人は多いと考えてよいでしょう。ただ、救い主のすぐ身近に生活し、外的には主と一緒に食べたり飲んだり、主の教えに耳を傾けたりしていても、内的にはいつまでも自分の考えや自分の望み中心に生活する心を改めようとしない人は、神の国に入ることを拒まれることになる、という警告も添えてのお答えだと思います。

⑥ としますと、主が最初に話された「狭い戸口」というのは、エルサレムで主を処刑しようとしていたサドカイ派やファリサイ派が民衆に求めていた伝統的規則の遵守ではなく、当時荒れ野で貧しい隠遁生活を営んでいたエッセネ派が実践し、民衆の間にも広めていた神の内的呼びかけや導きに従うことを中心に生きようとする、謙虚な預言者的精神や信仰生活を指していると思います。伝統の外的規則を厳しく順守し定められた祈りを唱えているだけでは、この世の人たちからは高く評価されても、神からはあまり評価されないのではないでしょうか。自分中心・この世中心の心に死んで、神の子キリストのパーソナルな愛に生かされて生きようとする精神を、その生活実践に込めていない限り。このことは、現代の私たち修道者にとっても大切だと思います。外的に何十年間修道生活を営み、数え切れない程たくさんの祈りを神に捧げていても、内的に自分のエゴに死んで、神の子イエスの精神に生かされようと努めていなければ、それはこの世の誰もが歩んでいる広い道を通って天国に入ろうとする、2千年前のファリサイ派の信仰生活と同様、神から拒まれるのではないでしょうか。聖書にもあるように、神が私たちから求めておられるのは山程の外的いけにえや祈りなどの実績ではなく、何よりも神の愛中心に生きようとする、謙虚な打ち砕かれた心、我なしの悔い改めた心なのですから。天啓の教理についてはほとんど知らなくても、非常に多くの人たちが、心のこの「狭い戸口」を通って天国に導き入れられるのだと思います。

⑦ 3年前のお盆休みに、名古屋で夕食を共にした横浜の知人から、十数年前から「うつ病」に悩まされており、医師にかかってもなかなか治れずにいることを打ち明けられて、少し驚いたことがありました。現代の日本社会には、非常に有能な人たちの中にも職場の複雑な人間関係の中で生じる問題を自分独りで背負い、合理的に解決しようとして「うつ病」になり、夜も眠れなくなる人、時には自殺したいなどと思ったりする人が増えているようです。私もそのような人を他にも数人知っており、その一人は十数年前に自殺しています。相談を受ける精神医たちは、その人を取り巻く周囲の人たちの協力で、温かい人間関係やくつろげる環境を造ることにより、その病気が数年かけてゆっくりと治るのを待つという療法を取っているようです。多くの人はそれで結構癒され、立ち直っているようですが、しかし中には、内的周辺環境がほとんど変わらないためなのか、十数年経っても治れずにいる人たちもいます。そういう人たちは、どうしたら良いのでしょう。

⑧ そこで私が3年前にその知人に話したことを、少し補足して紹介してみましょう。今の日本には、これからも「うつ病」に苦しむ人が続出するでしょうし、皆様もそのような人に会うことがあるかも知れませんから。私は、ストレスが心の中に蓄積して奥底の心が成熟できず、底力を発揮できずにいる所に、「うつ病」の一番の原因があると考えています。もしそうであるなら、奥底の心を目覚めさせて成熟させれば、治るのではないでしょうか。その道は、聖書に示されていると思います。まずペトロ前書5章7節の「全ての思い煩いを神に委ねなさい」という勧めに従って、人間主導の考えで生きようとはせずに、神の御旨・神のお導き中心に生かされて生きようと立ち上がり、主イエスや聖母マリアのように、神の僕・神の婢として生活することです。それは単純なことですが、実際上これまで長年続けて来た人間主導、この世中心の生き方から、あの世の神中心の生き方へと心を脱皮させることは、簡単でありません。

⑨ まず、聖人たちの模範に習って自分の奥底の心に愛の眼を向け、時には厳しく時には優しく、日に幾度も話しかけるように致しましょう。シトー会に入会した聖ベルナルドは、しばしば「ベルナルドよ、何のためにここに来たのか」と話しかけていたそうですが、聖フィリッポ・ネリやその他の聖人たちも、皆それぞれに自分の心に話しかけています。古来わが国には「言霊(ことだま) 信仰」というものがあり、心を込めて話した言葉には、不思議にいのちや霊がこもると信じられていました。主キリストも「私があなた方に話した言葉は、霊であり命である」(ヨハネ6:63)と話しておられます。現代世界に氾濫している単なる「頭の言葉」ではなく、心の深い愛のこもった言葉には、不思議な力が宿るからだと思います。若い動植物の命にも、そういうパーソナルな愛の言葉をかけていると、育ちが違うと聞いています。私たちの奥底の心も、いつまでも幼子のように若々しい命なのです。ですから主も、「ひるがえって幼子のようにならなければ、天の国には入れない」(マタイ18:3) などとおっしゃったのだと思います。

⑩ その幼子のように素直な奥底の心に、日に幾度もねぎらいの短い言葉やシュプレヒ・コールのような励ましの言葉をかけたり、その奥底の心に立ち返って神に射祷を捧げたりしていると、その心の中に神の霊が働くようになるようで、ゆっくりとですが、不思議に心の底力が育って来ます。そして次第に、この世のさまざまな困難や失敗などには挫けないようになります。これは私が年来実践していることで、相談を受けた「うつ病」を患っていると思われる別の人にも勧めたら、数ヶ月して将来に希望を持てるようになったそうです。頭の思想などとは違って心は生き物であり、その命は急には流れを変えることができませんが、幾度も話しかけ呼びかけているうちに、だんだんと神中心の新しい流れに変わって行くもののようです。神ご自身も、私たちが自分の権利や言い分などを一切神の御前に放棄して、素直な幼子のように神から与えられるものに満足し、神の僕・婢として神の導き、神の働きに聴き従い、日々喜んで生きていようとするのを待っておられると思います。そのため、自分に必要と思われる導きや力を願ってみて下さい。きっと与えられます。希望と忍耐をもって励みましょう。