2010年8月1日日曜日

説教集C年: 2007年8月5日 (日)、2007年間第18主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. コヘレト 1: 2, 2: 21~23. Ⅱ. コロサイ 3: 1~5, 9~11.  Ⅲ. ルカ福音書 12: 13~21.

① 本日の第一朗読にあるコヘレト(すなわち集会の指導者) は、書面の上では紀元前10世紀のソロモン王を指していますが、聖書学者によると本書が編纂されたのは、古代オリエント世界の各種伝統がアレキサンダー大王のペルシャ遠征後に、根底から液状化現象によって崩れ始めた紀元前3世紀頃とされており、その頃に誰かが智恵者ソロモンの権威を利用して執筆したのだと思われます。としますと、ある意味では現代社会のように、それまでそれぞれの社会で絶対視されていた価値観が相対化されて、何が善、何が悪であるかも、人それぞれに判断が大きく違っていた時代、大儲けをする人たちの陰に、いくら真面目に働いても貧困から抜け出せずにいる人たちが多いという、貧富の格差が大きかった時代、何を基準にしてこの世の人生を生きたら良いかに迷う人、悩む人が多かった時代に書かれたのではないでしょうか。「なんという空しさ、空の空」というような激しい嘆きの言葉で始まるコへレトの言葉はもっと長いのですが、第一朗読は、その始めと2章の終わりの部分だけに限られています。しかし、人生の空しさを語るこのコへレトの言葉の12:13には、「神を畏れ、その戒めを守れ」とありますから、この世を超越した次元におられる神を畏敬し、神からの戒めを守る人は、この極度に空しく見える人生の営みの中にあっても、心の眼を神に向けつつ、神の導き、神の助けに支えられて、永遠に価値ある人生を営むことができるのではないでしょうか。現代の私たちも、そのような生き方をしたいものです。

② 本日の第二朗読には、ちょっと驚くような表現があります。「あなた方は死んだのであって、あなた方の命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなた方の命であるキリストが現れる時、あなた方もキリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう」という言葉です。ここで「命」とある言葉は、ギリシャ語の原文では「ゾーエー」となっていて、間もなく時が来て死んでしまうこの世の儚い命ではなく、神の内に神と共に永遠に生き続ける命を指しています。私たちはキリストの洗礼を受けた時、この「ゾーエー」の命を授かり、神からのこの命を中心に据えて生きることを神に誓いました。ということは、この世の富や名誉や快楽などを目標にし勝ちなこの世の過ぎ去る命は、いわば神の命のための着物や器のような一時的手段と見做し、それらを神の愛のために利用しながら生きることを意味していると思います。聖書はそのことを、この世の過ぎ去る幸せのために生きているのではないという意味で、「あなた方は死んだのです」と表現したのだと思います。

③ 私たちの本当の命(ゾーエー) は、この世の命を卵の殻や母体のようにしてその中に孕まれていますが、その本当の姿と栄光は、主キリストの再臨の時に輝き出るというのが、聖書の教えであります。その栄光の日が来るまでは、第二朗読の後半に述べられているように、この世の過ぎ去る幸せを目指して生きようとする「古い人」を、その行いと共に絶えず新たに脱ぎ捨て、「創り主の姿に倣う新しい人(すなわちキリストの生き方) を絶えず新たに身に着け、日々新たにされて、真の知識に達する」ようにというのが、聖書の勧めだと思います。本日この勧めを心に銘記して、私たちが洗礼の時になした神への約束を新たに堅めましょう。

④ 本日の福音にある主の譬え話の中の金持ちは、畑の豊作でますます豊かになり、「どうしよう。作物をしまって置く場所がない。云々」と話していますが、そこに現れる動詞は全て「私」が主語ですし、日本語の訳文では煩わしいので省かれていますが、ギリシャ語原文ではここに「私の」という所有代名詞が4回も繰り返されています。この金持ちは、何事も常に自分中心に考え、自分が獲得し、自分が利用し、自分が所有し使うことのみに関心を示している人のようです。しかし、貧しい人・苦しむ人のために与えようとする愛の精神に欠けている人が蓄えている富は、死と共にその人から完全に奪い取られる性質のもので、その時貧者への愛に欠けていたその人の魂は、愛のない恐ろしく暗い冷たい苦しみの世界の中に投げ落とされてしまうことでしょう。

⑤ このような人は、豊かさと便利さを追い求めて45年ほど前から急速に発展して来たわが国でも増えているのではないでしょうか。神を無視する、神なしの利己主義一辺倒の毒素が家庭や社会をますます酷く汚染しているのかも知れませんが、以前には考えられなかったような犯罪も多発しています。近年一人の若い母親が、同じ幼稚園に子供を通わせているもう一人の母親の女の子を絞め殺し、自分の家の庭に埋めたという事件がありました。その子を殺しさえすれば、もうその母親と顔を合せなくて済むという、全く短絡的利己的な気持ちから起きた事件のようです。「言葉に表せない心のぶっつかり合いが、相手の母親との間にありました」という、子供を殺した母親の言葉は、現代の多くの日本人にとって他人事ではないように思います。共に助け合って共同の困難に耐えていた時代の、温かい愛の共同体が失われ、各人がそれぞれ主体的に自力で親も社会も利用しなければならない、と思っている人たちが増えているようです。愛のないそのような冷たい個人主義時代には、神という超越的権威を受け入れ、そのお言葉に従って神の愛に生きようと努めない限り、個性的な人間同士の理解の限界、理知的な言葉の限界に苦しむことが多くなり、その悩みから逃れるための離婚や嫌がらせや殺人などは、今後もますます多くなると思われます。既に自分中心になっている心の中にとじ籠っていくら考えてみても、人間の力では解決の道が見出せません。心を神に向かって大きく開き、自分を捨てて神のお考えに従おうと立ち上がりましょう。その時、上から新たな光が心の中に差し込んで、神の愛による問題解決の道が可能になります。

⑥ 本日の福音にある譬え話の最後に、神は金持ちに「愚か者よ」と話しかけていますが、聖書には「愚かな」という形容詞と「愚か者」という名詞は非常にたくさん使われていて、それぞれ皆共通した意味を持っています。私が調べた所では、両方を合せて旧約聖書には108回、新約聖書には38回登場しています。例えば詩篇14には、「愚かな者は心の内に神はないという」とあり、マタイ福音書には「砂の上に家を建てた愚かな人」の譬え話や、五人の「愚かな乙女」の譬え話などが読まれます。これらの用例をよく吟味してみますと、「愚かな」とか「愚か者」という言葉は、頭が悪い人のことではなく、この世の利益や楽しみのためには頭の回転が早く、利にさとい人かも知れませんが、神はいない、あるいは神は見ていないと考え、神を信じ神に従おうとしている人を軽視している人、その頭にも心にもエゴが居座っているような人を指しています。そのような人間にならないようにというのが、本日の福音の一つの教訓だと思います。

⑦ もう一つ、主は本日の譬え話のすぐ前に、「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできない」と話しておられますが、ここで「命」と言われている言葉は、先程の時と同様ギリシャ語の「ゾーエー」で、あの世に行っても失われない永遠の命、神から湧き出る命を指しており、ヘブライ語の「ハイ」という言葉に対応しています。新約聖書には「生命に到る門は狭い」だの、「死から生命に移る」だの、「私に従う者は、生命の光を得る」などという言葉が多く読まれますが、これらの場合には、いつもゾーエーという言葉が使われています。しかし、日本語に「命」と訳されていても、ギリシャ語のゾーエーではなく、この世の過ぎ去る命を意味する「プシュケー」という言葉の訳であることもあります。ヘブライ語の「ネフェシュ」という言葉に対応していて、自我とか小我などと訳すこともできる言葉です。例えば「命のために何を食べようかと思い煩うな」だの、「善い牧者は羊のために命を捨てる」などという時に、このプシュケーという言葉が使われています。本日の譬え話の中で「今夜お前の命は取り上げられる」と神から宣告された金持ちの命も、ギリシャ語原文ではプシュケーとなっています。ですから、日本語では「命」と訳されていても、ある場合には永遠の神の命を、他の場合にはこの世の過ぎ去る自我の命を指していることを弁えていましょう。そして何事にも、主キリストの御功徳によって与えられた神からの愛の命、永遠に失われることのないゾーエーの命に生きるよう、日々大きな感謝と喜びのうちに心がけましょう。