2010年7月25日日曜日

説教集C年: 2007年7月29日 (日)、2007年間第17主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 創世記 18: 20~32. Ⅱ. コロサイ 2: 12~14.
     Ⅲ. ルカ福音書 11: 1~13.

① 本日の第一朗読の始めには、「ソドムとゴモラの罪は非常に重い」という神のお言葉があって、罪悪を忌み嫌われる神がそれらの町々を滅ぼそうとしておられる御決意が、朗読箇所全体の雰囲気を圧しているように感じられます。3千数百年も前の出来事についての伝えですが、神は現代世界に対しても同様の憂慮と決意を抱いておられるのではないでしょうか。ソドムとゴモラの罪をはるかに凌ぐ罪悪が日々横行し、万物の創造主であられる神を無視し悲しませるような、自然界の汚染が急速に進行しているからです。人類の人口は2030年に80億、2050年に90億と予測されていますが、産業革命と共に始まった地球温暖化が、節度を厳しく守ろうとしない人間の欲望によってますます進行し、異常気象による農作物の減少や農地の砂漠化、氷河の溶解などの現象が深刻になりつつあります。国連の「気象変動に関する政府間パネル (IPCC)」の今年2月の報告では、このままの状態が続くと、2050年には世界の飢餓人口が1千万人、水不足に悩む人が10億人に増え、その後はもっと恐ろしい事態が発生すると警告されています。

② 私たち神信仰に生きる人たちは、既にここまで地球環境を悪化させ、滅びへの道を進んでいるこの世の流れの中で、どう対処したら良いでしょうか。まずは本日の朗読に登場したアブラハムのように、神は罪悪を憎まれるよりも善に生きる人を喜ばれる方であることを信じつつ、一人でも多くの人が神に対する信仰と愛に目覚めて生きるよう、真の神信仰を広めることに心がけましょう。神が求めておられる程多くの人を信仰に導くことができず、天罰は避け得ないかも知れませんが、せめてアブラハムの甥ロトたちのように、天使の導きや助けによって救われる人たちの数を増やすことは、可能なのではないでしょうか。

③ 本日の第二朗読には、「肉に割礼を受けず、罪の中に死んでいたあなた方を、神はキリストと共に生かしてくださったのです」という言葉が読まれます。「キリストと共に」という言葉は、「内的にキリストと結ばれ、一致して生きることによって」という意味に受け止めてよいと思います。それは使徒パウロの教えに従うと、自分主導の生き方に死んで、主キリストのように、天の御父の御旨によって自分に与えられる全てのもの、喜びも苦しみも快く受け入れ、主の十字架上のいけにえに合わせて神に奉献しながら生きることを、意味していると思われます。神は主キリストと一致してなすそのような生き方を殊のほかお喜びになり、その人が献げる苦しみや働きを介して、豊かな恵みを世の人々の上にお注ぎ下さると信じます。パウロはコリント後書4章に、「私たちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために」、「こうして、私たちの内には死が働き、あなた方の内には命が働きます」と書いていますが、本日の朗読にあるように、これが「キリストと共に葬られ」「キリストと共に復活されられて」神の内に生きる人の道であり、パウロのように、主において豊かな救いの恵みをこの世に呼び降す道なのではないでしょうか。

④ 本日の福音は、弟子たちの求めに応じて主が祈りを教えて下さった前半部分と、神に対してなした祈りは必ず聞き入れられることを確約なされた後半部分とから構成されています。私たちがミサ聖祭中に唱えている「主の祈り」はマタイ福音書6章に載っているもので、マタイはそれを山上の説教の中に収録していますが、ルカが伝えている「主の祈り」はそれよりも短く、主が熱心に深く祈っておられるお姿に心を引かれた弟子たちが、洗者ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えて下さいと願ったことなど、主がその祈りを教えて下さった事情も書き添えていることから察すると、ルカが伝えているこの短い形の「主の祈り」が、主が実際に弟子たちに教えて下さった元々の祈りであると思われます。

⑤ それは「父よ」という神への親しい呼びかけで始まっており、主が弟子たちと話しておられたアラム語では「アッバ」という、幼児が父を呼ぶ時の言葉であると思われます。それは、現代人が自分の父を「パパ」と呼ぶ時のような、親しみの溢れている幼児語です。主はゲッセマネの園でも、神を「アッバ」と呼びかけながら真剣に祈っておられたことがマルコ福音書に記されていますし、使徒パウロもローマ書やガラテア書で神を「アッバ」と親しみを込めてお呼びする神の子の霊について教えています。従って主は、弟子たちに実際に天におられる父なる神を「アッバ」と親しみを込めて呼ぶよう、教えられたのだと思います。しかし、このあまりにも馴れ馴れしい幼児語で神に話しかけることは、ミサ聖祭のような公式の共同的祈りには相応しくありません。それで初代教会の時から、主が教えて下さった祈りの内容はなるべく変えないようにして、「天にまします我らの父よ」という言葉で始まる、公式の場で唱えるに相応しい形の祈りに作り変えて唱えるようになりました。マタイはこの形の「主の祈り」を、山上の説教の中に収録したのだと思われます。しかし、一人で個人的に祈る時には、今でもルカ福音書に記されている、主が教えて下さったままのこの大胆な親しみの呼びかけで始まる「主の祈り」を使うことができますし、その方が神に喜ばれるのではないでしょうか。私たちは何かの外的法によって神の子なのではありません。神の子キリストの愛の命に生かされる度合いに応じて、内的に神の子と見做され、神に受け入れられているのですから。

⑥ ところで、この祈りを唱える時は、これが主が教えて下さったという意味での「主の祈り」であるよりも、主が今も目には見えなくても今も実際に人類の中に現存して、全人類のために唱えておられる祈りであることを心に銘記し、主と心を一つにして主と共にこの祈りを唱えること、主の器・主の道具のようになり、主の聖心を心としてこの祈りを唱えることが大切だと思います。マタイ福音にある「御旨が天に行われるように、云々」と「私たちを悪から救って下さい」という言葉はここにありませんが、これらはそれぞれ「御国が来ますように」と「私たちを誘惑に遭わせないで下さい」という主の願いを、初代教会が少し膨らませて表現しただけなのですから、ルカの伝えている短い形の「主の祈り」の中に全て含まれています。「悪から救って下さい」という言葉は、ギリシャ語原文では「悪者(すなわち悪魔) から救って下さい」となっていて、「誘惑に遭わせないで下さい」という祈りに含まれていますから。とにかく要は、私たちの内に現存しておられる主と内的に深く結ばれ、主の聖心に内面から生かされてこの祈りをゆっくりと唱えることだと思います。その時、主が私たちの中で私たちを通して天の御父に祈って下さり、私たちもその祈りの効果を、主において生き生きと身に感ずるようになるのではないでしょうか。

⑦ なお、本日ここで朗読された邦訳では「御名が崇められますように」となっていますが、これも原文を直訳しますと「御名が聖とされますように」となっていて、私は、主が教えて下さったこの「あの世的」表現で祈ることを愛好しています。それはこの世のどの民族の言語にも解り易く訳すことができない、少し違和感を与える言葉だと思います。真善美などのこの世的価値と違って、「聖」はあの世的価値だからです。しかし、主があえてこの言葉をお使いになったのですから、私はそれを尊重し、この言葉を唱える時にはいつも、イザヤ預言者の見た幻示、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は全地を覆う」と呼び交わしながら、天使たちが壮大なスケールで神を讃美している場面を心に描いて、天上のその讃歌に心を合わせることにしています。

⑧ 次に本日の福音の後半部分について考えてみましょう。まず突然夜中に訪ねて来た空腹の友人のため、食べさせるパンが全然なく、友人の家にパンを恵んでくれるよう頼みに行く人の話がありますが、この話の要点は、執拗に頼めば最後にはパンを与えて下さるということにあると思います。主がなぜこのような話をなさったかと申しますと、天の御父は、人となられた神の子イエスがお願いすれば、いつもすぐにその願いを聞き届けようとはなさらずに、その願いが人となられた主の人間的聖心の内に十分深く根を張るまで、しばしば時間をかけてお待たせになることを、幾度も体験なさったからなのではないでしょうか。主イエスも、この罪の世に生きる被造物人間としてのこのような制約を、耐え忍ばなければならなかったのだと思われます。ですから時々は、夜を徹して長時間天の御父に祈られたのではないでしょうか。その主の祈りに参与するため、私たちも忍耐を失ってはなりません。

⑨ 本日の福音には、「求めなさい」「探しなさい」「門を叩きなさい」という三つの命令が相次いで強調されていますが、ギリシャ語の原文では、それらの動詞は動作の継続を意味する現在形になっていますから、日本語では「求め続けなさい」「探し続けなさい」という意味になります。時間をかけて忍耐強く求め続けましょう。しかしその場合、「こうして欲しい」などと、あまりにも自分の望みや要求にこだわってはなりません。神の僕・婢として、全てが天の御父の御旨のままになるようにと、ひたすら主キリストから教わった「主の祈り」を唱えていましょう。異教徒たちのように、あの事もこの事もなどと、一々細かく申し上げる必要はありません。神は私たち以上に、私たちが必要としている全てのことをよくご存知なのですから。ただ、ひたすら主キリストと一致して祈るように努めましょう。そうすれば、本日の福音にありますように、天の御父は「聖霊を」与えて下さいます。そしてこの聖霊が、私たちの考え及ばない程、全てが私たちの救いと仕合せのためになるよう、助け導いて下さいます。