2010年7月4日日曜日

説教集C年: 2007年7月8日 (日)、2007年間第14主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 66: 10~14c. Ⅱ. ガラテヤ 6: 14~18.
     Ⅲ. ルカ福音書 10: 1~12, 17~20.


① 本日の第一朗読は、イザヤ預言書の最後の章からの引用ですが、イザヤはここで、バビロン捕囚から解放されてエルサレムに帰国しても、祖国の再建を難しくする様々の困難に直面している民に向かって、喜んで神に従うよう励ましつつ、平和と慰め、繁栄と豊かさを約束して下さる神のお言葉を伝えているのだと思われます。48年前の1959年に、大きな明るい希望のうちに司祭に叙階された時の私は、ここに「エルサレムと共に喜び祝い、彼女のゆえに喜び躍れ」と言われている「エルサレム」を、勝手ながら救われる全人類と考えてみました。その頃の日本は既に敗戦後の暗い貧困状態から抜け出て、豊かな社会を築こうとして皆意欲的に働いているように見えましたし、戦後目覚しく復興した西ドイツでは、「経済的奇跡」という言葉が持て囃されていました。イザヤの預言には、ただ今ここで朗読されましたように「平和を大河のように、国々の栄えを洪水の流れのように」という言葉も読まれます。半世紀前からの世界の動きを振り返って見ますと、多発する数多くの不穏な動きにも拘らず、この預言はある意味で現代の多くの国でも実現していると考えてよいのではないでしょうか。

② しかし、2千年前のエルサレムがその繁栄の絶頂期に徹底的に破壊され、廃墟と化してしまったように、今文明の豊かさを謳歌している国々も、その繁栄を支えてくれている陰の力、神の働きに対する感謝と奉仕を蔑ろにし、神から離れて生きようとしていると、その繁栄の地盤が崩壊し、思わぬ液状化現象によって建物全体が根底から倒壊する恐れに、悩まされる時が来るのではないでしょうか。聖書の語る神からの警告に、心して深く学ぶよう努めたいものです。

③ 本日の第二朗読は、ガラテヤ書の結びの言葉といってよいですが、このガラテヤ書は、異邦人キリスト者も皆割礼を受けて、神から与えられた律法を順守しなければならないと説く、ユダヤ主義者の誤りを排除するために書かれた書簡であります。ガラテヤ書3章に述べられている教えによると、神がアブラハムとそのただ一人の子孫、すなわちキリストに約束なさった救いの恵みは、その430年後にできた律法に由来するものではなく、神の約束が律法によって反故にされたのでもありません。律法は、信仰によってキリストを受け入れるように導く養育係として、与えられたのです。しかし、今や信仰によってそのキリストと一致し、神の子となる時代が到来したのですから、私たちはもはや養育係の下にはおらず、律法を順守しなくてもよいのです。もはやユダヤ人とギリシャ人の区別も、奴隷と自由人の区別もなく、皆キリストにおいて一つとなって神の子の命に生き、神の約束なさった恵みを受け継ぐ者とされているのです。

④ 使徒パウロはこの観点から、私たちを人間中心の文化や思想や自力主義から解放してくれる、「主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」、「大切なのは、新しく創造されることです」などと、本日の朗読箇所で述べているのだと思います。「私は、イエスの焼印を身に受けているのです」という言葉は、焼印を押されて主人の持ち物とされ、主人の考え通りに働く古代の奴隷たちを連想させますが、使徒パウロは、それ程に全身全霊をあげて神の子イエスの内的奴隷となり、神中心に生きる「神の子」という新しい被造物に創造されることに打ち込んでいたのだと思われます。私たちも、この模範に倣うよう心がけましょう。

⑤ 本日の福音を書いたルカは、主が6章に選定された12使徒を村々へ神の国宣教のために派遣した話を、9章に記述しています。続く10章の始めにも、今度は他に72人を任命し、ご自分が行くつもりの全ての町や村へ、二人ずつ先に派遣されたと書いています。そして神の国の到来を宣べ伝え、病人を癒すために派遣された使徒たちと同様に、この72人の弟子たちも喜んで戻って来て、各人の仕事の成果を主に報告しています。ルカ福音書にだけ読まれるこの72人の指名と派遣の話は、ルカが、使徒たちだけではなく、救いの恵みを受けた一般信徒も、主から派遣されて自分の持ち場で出会う人々に、神の国の到来を証することの大切さを重視していた証拠だと思います。宣教は、教会から宣教師として公式に選ばれ派遣されている人たちだけが為す活動ではありません。第二ヴァチカン公会議は、教会は本質的に宣教師的であり、信徒も皆キリストの普遍的祭司職に参与していると宣言していますが、その教会に所属しているメンバーは皆、それぞれの持ち場、それぞれの生活の場で主から宣教の使命を頂いていると考えているからだと思います。

⑥ では、どのようにしてその使命を果たしたらよいでしょうか。本日の福音からヒントを得て、ご一緒に考えてみましょう。主は72人を派遣するに当たり、まず収穫のために働き手を送って下さるよう、収穫の主(すなわち天の御父・神)に願いなさい、と命じておられます。商工業の急速な発達で社会がどれ程豊かになっても、その豊かさの陰で自分の心の弱さ、未熟さを痛感させられ、悩んでいる人や道を求めている人は非常に沢山います。自分の心の欲を統御できずに、もう止めたい止めたいと思いながらも止められずに、アルコールや麻薬やギャンブルなどの奴隷のようになり、知りつつ健康を害している人や、良心の呵責に苦しみつつ資金作りのため悪事を働いている人も少なくありません。私は30数年前に、中学時代に親しかった同郷の優秀な下級生で、クレーン車操作の技術などで建築業界で活躍していた人が、アルコール依存症で仕事ができなくなり、妻子にも逃げられて入退院を繰り返し、遂に死ぬまでの間、一年間程その世話を担当したことがありますが、その時、自分の心を持ち崩したそういう人たちは、バランスよく健康に暮らしている人たちの何倍も多く深刻に苦しんでいることを、思い知らされました。2千年前のキリスト時代と同様、現代にも心の救いを捜し求めている人、必要としている人は大勢いるのではないでしょうか。

⑦ ですから主は、「収穫は多いが、働き手が少ない」とおっしゃったのだと思います。ここで「収穫」とあるのは、心の救いを必要としている人や捜し求めている人たちを指していると考え、また「働き手」とあるのは、何かの社会的資格を取って働く人ではなく、自分が体験した神の働きや神による救いを、感謝と喜びの内に他の悩んでいる人、求めている人の心に語り伝えることのできる人を指している、と考えてもよいと思います。主は、神の国の到来を証しするそういう働き手が少ないと嘆き、一人でも多くそういう働き手が増えるよう、天の御父に祈ることをお命じになったのだと思います。まず神が働き、その神から派遣されて実践的に証しするのが宣教だと思います。

⑧ 次に主は、このような信徒の派遣を「狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」とも話しておられます。この世の一般社会には個人的あるいは集団的エゴイズムの精神で生活している人が大半で、そのような人たちにはいくら真面目に証ししても正しく理解されず、逆にその人たちと同じように考え行動するよう、強引に引き込まれることも起こり得ます。特に自分が何か、その人たちに利用価値ありと思われるような物を持っている場合には。それで主は、「財布も袋も履物も持って行くな。途中で誰にも挨拶するな」などと、警告なさったのだと思われます。しかし、神から自分に与えられた生活の場に入ったら、まず「この家に平和があるように」と神に祈りなさい。もしそこに神の平和を受けるに相応しい心の人がいるなら、あなた方の願った平和はその人の心に留まり、恵みをもたらすでしょうが、もしいなくとも、その平和は無駄にはならず、あなた方の上に戻って来るのです、と主は教えておられるのだと思います。このようにして、人から注目されるような富も能力も何もなくても、自分の魂に宿る神の働き、自分の頂いた神の恵みを出会う人たちに実践的に証しして、やがて主ご自身がその人たちに受け入れられるよう地盤造りをするのが、信徒の宣教活動だと思います。

⑨ 最後にもう一つ、主が「二人ずつ遣わされた」という言葉にも注目しましょう。釈尊は、ご自分が会得した人生苦超克の道を、できるだけ多くの人に伝えさせるために、弟子たちに一人ずつで行くようお命じになったそうですが、主が二人ずつ派遣なされたのは、何かの個人的悟りや生き方を伝えるためではなく、何よりもその二人が各人の考えや性格の違いを超えて、神の愛のうちに一致して働く実践を世の人々に実証させるためだと思います。我なしの積極的博愛のある所に神が臨在し、働いて下さるのですから。信徒の宣教活動の本質は、このような神の愛を証しすることである、と申してもよいのではないでしょうか。