2010年6月27日日曜日

説教集C年: 2007年7月1日 (日)、2007年間第13主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 列王記上 19: 16b, 19~21. Ⅱ. ガラテヤ 5: 1, 13~18. Ⅲ. ルカ福音書 9: 51~62.

① 本日の三つの朗読箇所に共通しているのは、主に従う者が身につけるべき特性と言ってよいかも知れません。第一朗読にはそれが明確には示されていませんが、少し自由な推察を働かせながら探ってみましょう。第一朗読は預言者エリシャの召命の話ですが、その頃神の預言者は、王妃イゼベルに命を狙われて神の山ホレブ(すなわちシナイ山) に逃れたエリヤ一人だけでした。しかし、その預言者エリヤが天に召される日も近づいていました。そこで神はエリヤに現われて、神の山からダマスコの荒れ野へと向かわせ、二人の男に油を注いでそれぞれアラムの王、イスラエルの王となし、エリシャにも油を注いで、エリヤの後を継ぐ預言者にすることを命じます。こうしてアラムでもイスラエルでも軍事的対立が始まって、預言者の活躍を必要とする舞台が生まれたのでした。

② 第一朗読は、エリヤがそのエリシャを預言者として召し出す独特の仕方について伝えています。言葉で呼びかけて自分に従わせたのではありません。何も言わずに、ただ働いているエリシャのそばを通る時に、自分の外套を彼の上に投げかけただけなのです。この出来事の前に、神からエリシャに何かの話があったのかどうかは、聖書に伝えられていませんが、この思いがけない突然の出来事に出遭った時、エリシャは牛を捨ててエリヤの後を追い、父母に別れの接吻をさせてくれるよう願って、「それからあなたに従います」と話しています。エリヤのなした風変わりな行為を神よりのものとして受け止め、正しく理解してすぐに対応する預言者的信仰のセンスが、エリシャの心の中に成熟していたしるしだと思います。エリヤもそれを認めて願いを許可しましたが、その時「私があなたに何をしたのか」という、不可解な言葉を口にします。よく判りませんが、これは、私があなたになした象徴的行為を忘れず、どんな思いがけない出来事の背後にも、神からの呼びかけを感知する信仰のセンスを大切にしているように、という意味を込めている言葉なのではないでしょうか。

③ 第二朗読には、キリストが「私たちを自由の身にして下さったのです。自由を得させるために」とありますが、ここで言われている「自由」とは、何からの自由なのでしょうか。この世の社会的身分制度や煩わしい外的労働、その他の生活の苦労からの自由ではありません。この朗読箇所に省かれているガラテヤ書5章2~12を読んでみますと、それは律法からの自由、すなわち律法の細かい規定を厳守することによって宗教的救いの恵みを得ようとする、ある意味では自分中心の利己的生き方からの自由を指していると思います。換言すれば、それは自分主導で何かを獲得しよう、所有しようとする欲求や生き方からの自由を指していると思います。したがって、最初に読まれる「奴隷のクビキに二度と繋がれてはなりません」という言葉は、そういう自分中心の生き方や肉の欲望に負けてはならないという意味だと思われます。

④ しかし、長年そういう生き方を続けて来て、その生き方がすっかり身についている通常の人間にとって、それはそう簡単なことではありません。ですからパウロは「だから、しっかりしなさい」と書いているのだと思います。仕事がうまく行かない時も、思わぬ困難や病気などに直面した時も、私たちの心を一番苦しめ悩ますのは、自分中心に自分主導で生きようとする私たち自身のエゴなのです。そのエゴからの自由を指しながら、パウロは、「あなた方は自由を得るために召し出されたのです」と書いているのではないでしょうか。では、どうしたら良いのでしょう。パウロはそれについて、「愛によって互いに仕えなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」等々の勧めを挙げています。人に負けまい、少しでも人の上に立とうとして、「互いにかみ合い、共食い」しないように、とも警告しています。

⑤ 使徒パウロがここで私たちに言いたいのは、神の愛の霊に導かれて生きるようにせよ、ということだと思います。その愛の霊は、既に私たちの心の奥底に与えられているのです。何かの事で失敗して自力の限界を痛感させられ、心の上層部に居座っている古いエゴの殻が破られてしまった時、すなわち聖書に度々語られている「打ち砕かれた心」の状態になったような時、その時がチャンスです。心の奥底に現存しておられる神の霊に信仰と信頼の眼を向けるなら、その霊は私たちのその信仰に応えて働き出して下さいます。自分中心に何かを得ようとするのではなく、神中心に神の愛の霊に導かれて、この不信の闇の世に神の愛の灯を点そう、輝かそうとして生きること、神よりの恵みの保護や導きを人々に与え続けようとして生きること、それが、神が望んでおられる新約時代の信仰生活であり、古いエゴの悩ましい思い煩いから心を解放し、豊かな祝福と恵みを人々の上に呼び下す、幸せな生き方であると信じます。主キリストや聖母マリアのように、自分のためではなく、多くの人のために生きるよう心がけましょう。その時、天からの引力が私たちの心の中で働き、様々の善い成果を産み出してくれます。目には見えなくても、そういう引力は実際に働いているのです。人間中心の精神を捨てて神中心の心で生きようとする時に、その引力が心の中で働き始めるようです。

⑥ 本日の福音の始めにある「天に上げられる時期」という言葉は、主のご受難ご復活の時を指しています。主は既にそのことを弟子たちに予告して、エルサレムに向かう決意を固め、ガリラヤを後にされたのです。いわば死出の旅に出発し、その旅の途中に横たわるサマリア人の村で泊めてもらおうとしたのです。しかし、エルサレムのユダヤ人たちと敵対関係にあったサマリア人たちは、主の一行がエルサレムへ行こうとしているのを知って、宿泊を拒みました。使徒のヤコブとヨハネはそれを見て怒りましたが、主は二人を戒めて、一行は別の村へと向かいました。主は殺されるために、エルサレムへ向かっておられるのです。何か緊迫した雰囲気が一行の上に漂っているような、そんな状況での出来事だと思います。

⑦ しばらく行くと、次々と三人の人が登場しますが、ルカがここで登場させている人は、マタイ8章の平行記事では「弟子」と明記されていますし、エルサレムへと急いでおられた主に話しかけたのは、いずれも一行の後を追って来た弟子であったと思われます。数多くの大きな奇跡をなされた主イエスが、その主を殺害しようとしているユダヤ教指導者たちの本拠エルサレムに向かっておられると聞いて、メシアの支配する新しい時代が始まるのだと考え、この機会にメシアのために手柄を立てて、出世したいと望んで駆けつけたのかも知れません。最初の人は「どこへでも従って参ります」と申し上げていますが、主は、メシアに敵対する悪霊たちが策動する大きな過渡期には、どんな苦労をも厭わぬ覚悟が必要であることを諭すためなのか、「人の子には枕する所もない」などと話されました。

⑧ 第二の人は「私に従いなさい」という主からの呼びかけに、「まず父を葬りに行かせて下さい」と答えましたが、主はその弟子に「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を宣べ伝えなさい」という驚く程厳しい返事をなさいました。死に逝く父の世話や埋葬が、ユダヤ社会では息子にとって重大な義務であることを知ってのお言葉だと思います。その弟子は、主はエルサレムで敵対勢力を打ち破るか、殺されるかのどちらかであろうと考え、もし主が勝利して王位に登られたら、自分が逃げて弟子でなくなったのではなく、末期の父の世話と埋葬のため、主の許可を得て家に戻っていたのだということにしておけば、将来の出世の道が閉ざされることはないであろう、などと両天秤にかけて考えていたのかも知れません。それで主は、捨て身になって主に従おうとしていないその弟子の心を目覚めさせるために、厳しい言葉を話されたのかも知れません。「死んでいる者たちに」とあるのは、この世の人間関係や生活の配慮に没頭していて、まだ神の国の命に生きていない者たちという意味だと思います。

⑨ 第三の人は、「まず家族に暇乞いをしに行かせて下さい」と願いますが、主はその人にも、「鋤に手をかけてから後ろを振り返る者は、神の国に相応しくない」と冷たい返事をなさいます。本日の第一朗読では、エリヤがエリシャの願った家族への暇乞いをすぐに許可しましたが、主はここではそれを認めようとなさいません。その人の心が、まだこの世の人間関係などへの拘りを捨て切れずいるからなのかも知れません。私たちの心は本当に自分を捨て、聖母マリアのように神の僕・婢として主に従おうとしているでしょうか。心は無意識界ですので目に見えず自覚も難しいですが、日ごろの何気ない態度や言葉などに反映されることの多い自分の心をしっかりと吟味しながら、まだ何が自分に不足しているのかを見定め、神の導きと恵みを願い求めつつ、決心を新たに堅めましょう。