2010年6月13日日曜日

説教集C年: 2007年6月17日 (日)、2007年間第11主日(三ケ日)

朗読聖書:Ⅰ. サムエル下 12: 7~10, 13. Ⅱ. ガラテヤ 2: 16, 19~21. Ⅲ. ルカ福音書 7: 36~56.

① 本日の第一朗読は紀元前千年頃の話で、カナンの地の先住民ヘト人の出身者である家臣ウリヤの妻を奪って子を身ごもらせたダビデ王が、その姦通罪の発覚を恐れてウリヤを戦場で死なせたという、もっと酷い二重の罪を犯したことを、預言者ナタンが主の名によって厳しく咎めた話であります。預言者はこの叱責に続いて、ダビデ王の家族の中から反逆者が出てもっと恐ろしい罪を公然と犯すという、耐え難い程の天罰も王に予告しています。

② しかし、王がナタンに「私は主に罪を犯した」と告白し、悔悟の心を表明すると、本日の朗読箇所にもあるように、ナタンは「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる」と、神からの赦しと慰めの言葉を告げます。私たちにとって、神からのこのような赦しと励ましの言葉は大切だと思います。エフュソ書の2: 3に述べられているように、私たちは原罪により神の「怒りの子」として神に背を向け、神以外の被造物を選び取り、それを自分の人生の中心として  生きようとする、いわば神に対する忘恩と反逆の強い傾きをもって生れ付いています。

③ 私たちの人間性を生まれながら歪めている、この利己的自己中心の傾きは心の奥底に深く隠れていて、自分の持って生まれた自然の力ではどんなに努力しても勝てません。神のため人のためと思って為した献身的善業にも、いつの間にか無意識の内に入ってきてしまうほど根深い、本性的罪の傾きなのですから。ダビデ王がなした程の大きな罪は犯さないとして、心を細かく吟味してみますと、私たちも日々数多くの小さな忘恩や怠りの罪を犯しており、神から無意識の内にそれなりの小さな罰や失敗・不運などの天罰を受けているのかも知れません。しかし、ダビデ王のように神の憐れみの御心にひたすら縋りつつ、罪を赦して下さる神の愛と力に生かされて生きようと努めるなら、私たちも晩年のダビデ王のように、憐れんで救う神の新たな働きを生き生きと体験するようになるのではないでしょうか。

④ 使徒パウロは本日の第二朗読の中で「人は律法の実行によってではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」と書いていますが、ここで「信仰」とあるのは、ハバクク書2章やローマ書1章その他に「義人は信仰によって生きる」とある言葉なども総合的に参照してみますと、「信仰の実践」と考えてよいと思います。パウロはその理由として、「律法の実行によっては、誰一人として義とされないからです」と述べていますが、この言葉の背後には、彼が若い時にキリストの教会を迫害したという、苦い体験があると思います。改心前の彼は、誰にも負けない程熱心に律法の全ての規定を順守しようとしていた律法学者だったと思います。しかし、復活なされた主キリスト御出現の恵みに出会い、その主から厳しく叱責された時、神と社会のためと思ってなしていた律法の厳守は、神の新しい救いの御業を妨げるものであったことを痛感させられたのでした。

⑤ 彼はその時から、人間が自力で研究し順守する律法中心の立場を捨てて、ひたすら神の新しい導き中心の立場に転向し、その信仰に生きて下さる復活なされたキリストの命に内面から生かされる、新しい信仰実践に励むようになりました。「キリストが私の内に生きておられるのです。云々」の言葉は、この新しい信仰体験に根ざした述懐であると思います。私たちも使徒パウロの模範に見習い、主キリストが新約の神の民から求めておられるこのような信仰実践を、しっかりと体得するよう心がけたいものであります。

⑥ しかしここで、「律法の実行によっては誰一人として義とされない」という使徒パウロの言葉を、あまりにも理知的原理主義的に誤解しないことにも気をつけましょう。熱心なユダヤ教徒は現代でも律法の規定を研究し順守することに励んでいますが、彼らはその敬虔な信仰生活にどれ程努めても義とされずに皆滅んでしまうという意味ではないと思います。元来律法はアブラハムの神信仰を民族の伝統として子孫に受け継がせ、メシアによる救いの御業の地盤を備える目的で神ご自身から与えられた善いものであります。旧約時代からのその伝統を現代に至るまで守り続け、神信仰に励んでいるユダヤ人たちの上には、主キリストによる救いの恵みが豊かに注がれていると信じます。彼らは律法の実行という過ぎ行く行為によってではなく、その行為を通して表明されている神信仰と神の大きな憐れみの故に、皆永遠の救いへと導かれていると信じましょう。2千年前のユダヤ教指導層の中には、宗教的伝統の権威や法規を重視するあまり、心が一種の原理主義に囚われてメシアを正しく理解できず、死刑へと追い詰めてしまった人たちもいましたが、その後2千年にわたって耐えて来た数々の苦難に学んだユダヤ人たちは、今日では神から新たな道へと導かれつつあるように感じています。

⑦ 本日の福音の中では、主イエスを食事にお招きしたファリサイ派のシモンと、その時イエスの足元に後ろから近づき、泣きながら主の御足を涙でぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、接吻して香油を塗った罪深い女とが比較されていますが、44節から46節に読まれる主イエスの言葉を誤解しないように致しましょう。長旅で足が汚れている時は別として、普通に客を食事に招待したような時には、足を洗う水を差し出す必要はなかったし、日頃親しく交際している友でない客を接吻で迎える義務もありませんでした。シモンの応対には、取り立てて言う程の無礼はなかったと思われます。しかし、主があえてシモンの応対を口になされたのは、シモンの親切な招待よりも遥かに大きな愛を表明した罪の女の態度と行為を際立たせるためであったと思われます。事によると、シモンはイエスの預言者的能力や人柄を試すために、イエスを招待した食事の場に、その町の罪の女が来るよう取り計らったのかも知れません。主はそれをご承知の上でシモンの招待を受け、罪の女に救いの恵みをお与えになったのかも知れません。

⑧ しかし、聖書学者の雨宮慧神父はここで、47節前半に読まれる主のお言葉をどう受け止めるかに、一つの問題があることを指摘しています。ギリシャ語の原文では、その箇所は「私はあなたに言う。彼女の多くの罪は赦された。なぜなら彼女は多く愛したからである」となっています。雨宮神父はこの言葉を、「彼女は多く愛したがゆえに私はあなたに言える、彼女の多くの罪は赦された」という意味に取れば、多く愛したことから分るように、彼女の多くの罪は赦されてしまっているという意味になるが、その場合その後の48節に、主が女にあらためて、「あなたの罪は赦された」と言われた言葉へのつながりが少し悪くなると言います。47節の「罪は赦された」は、現在完了形の動詞でもあるからです。

⑨ しかし神父はもう一つ、47節前半の言葉を「私はあなたに言う、彼女は多く愛したから彼女の多くの罪は赦された」という意味にとり、愛することが罪の赦しを受ける条件と考えるなら、48節の赦しの言葉へのつながりはよくなるが、しかしこの場合も、40節から46節へのつながりが不自然になる、と迷っています。しかし、神父は最後に、「二者択一でなくても良いと思う。ルカ自身、どちらの解釈も可能になるよう意識して両義的に述べたと考えることもできる」、「救いと愛は相互的である。救いが愛を生むと同時に、愛が救いを生み出す。この相関関係に人を含み込むのが、イエスとの出会いである」などと書いています。私が神学生であった時にも、主のこの言葉をめぐって話題になっていることを聞いたことがありますが、雨宮神父のこの解説で結構だと思います。しかしこのことと関連して、規則違反などの外的な罪の赦しは、お詫びの言葉や外的償いなどによって与えられるとしても、心の奥底に隠れ潜む罪の赦しは、神の愛の火を心に点火し燃え上がらせる実践によってのみ、与えられるものであることを心に銘記していましょう。罪の女がその罪の赦しを受けたのも、主イエスに対する愛を可能な限りで表明した実践を通してだったのではないでしょうか。