2010年6月6日日曜日

説教集C年: 2007年6月10日 (日)、キリストの聖体 (三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 創世記 14: 18~20. Ⅱ. コリント前 11: 23~26.
     Ⅲ. ルカ福音書 11b~17.


① 今年の2月22日、聖ペトロの聖座の祝日に、ローマ教皇は ”Sacramentum caritatis (愛の秘跡)”と題する使徒的勧告を発布しましたが、それは2005年のクリスマスに発布された現教皇の最初の回勅『神は愛』よりも長いもので、主の御聖体の秘跡とその神秘について詳しく説明しています。第一部、第二部、第三部と三つに分けて伝統的教義と典礼とその効用などについて詳述しており、特に主の御聖体の神秘を生きることについて、ヨハネ福音書、使徒パウロの書簡、アウグスティヌスや前教皇の言葉などを引用しながら述べている第三部には、熟読して学ぶべきことが多いと思います。いずれ日本語にも翻訳されて出版されるでしょうから、ここでは本日の朗読聖書から学ぶことにしたいと思います。

② 本日の第一朗読には、いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクのことが述べられています。聖書以外にはどこにも史料の残っていない、この王について少し考えてみましょう。彼は「天地の創り主、いと高き神」に仕える祭司ですから、アブラハムと同じ神を信奉しています。宇宙の創り主である神は、当時アブラムと称していたユダヤ人の先祖にだけ特別にご自身を啓示なされたのではなく、同じ時代に、恐らくはアブラムよりも前に、サレムの王メルキゼデクにも親しく語りかけ、この王を神の祭司としておられたようです。ここでサレムとある町は、詩篇76:3ではエルサレムと同一視されています。この王は、奇襲作戦によって敵軍から甥ロトの一家とその町の人々・財産などを奪回して来たアブラムの勝利を慶賀して、パンとぶどう酒を持参し、アブラムに神の祝福を与えたのです。感激したアブラムは、その全財産の十分の一をこの祭司を介して神に献げたようです。

③ 創世記に記されているこの出来事一つを見ても、神はユダヤ人以外の人々の中でも親しく働いておられ、しかもサレムの王は、アブラムよりも神に近い存在・祭司とされていることを、心に銘記していたいと思います。ダビデの詠った詩篇110: 4によると、神は将来この世に派遣なさるメシアについて「メルキゼデクのように、お前は永遠の祭司」と語っておられます。このメルキゼデクは、イスラエルのレビ族に所属する祭司ではありません。メシアもレビ族の祭司ではなく、初めもなく終りもなく、神によって直接に全人類のために立てられた祭司、メルキゼデクのように王であって祭司である方なのです。サレムの王という称号は、ヘブライ語では「平和の王」という意味ですが、メルキゼデクという名前も、ヘブライ語では「私の王は義」という意味になるそうです。これらの意味は、そのまま主キリストにも相応しいと思います。主がパンとぶどう酒による秘跡を人類にお与えになったことを記念し感謝する聖体の祭日に当たり、アブラムにパンとぶどう酒を介して神の祝福を与えた、遠い昔の祭司メルキゼデクの人類愛も、感謝のうちに合わせて記念致しましょう。

④ 本日の第二朗読の最後に読まれる、「あなた方は、このパンを食べこの杯から飲む毎に、主が来られる時まで主の死を告げ知らせるのです」という使徒パウロの言葉も、大切だと思います。「主の死を告げ知らせる」というのは、単に口先で「主が死んだ」などと、人々に語り伝えることを指しているのではありません。パンは主のお体を、ぶどう酒は主の御血を指していますが、その二つを別々に祭壇上で神への供え物にするということは、主が受難死によってこの世の命には既に死に、救いの恵みを人類の上に呼び下すいけにえ、神への供え物になっておられること、いけにえとしてのお姿を天父に提示しつつ、今も私たちの上に恵みと祝福を呼び下しておられることを示していると思います。そしてその主のお体と御血を拝領して、自分の血となし肉となす私たち信仰者は、主の御精神、主の御力に内面から生かされ、新たな神の愛に生きる恵みを受けるのであることをも、示していると思います。主はそのためにこそこの世に死んで、ご自身を私たちの糧となされたのですから。

⑤ 「主の死を告げ知らせる」とは、時間空間を越えた絶対的存在であられる神とこの世の被造界とを赦しと愛の絆で結ぶに至った主のご受難が、時間空間を越えて今も私たちのうちに現存し、数々の恵みを齎してくださっているという深く隠れている霊的現実を自覚し、それに相応しい内的実を結ぶことにより、世の人々にその事実を実践的に証しすることを意味していると思います。聖体奉挙の時「信仰の神秘」という司祭の言葉に、会衆は「主の死を思い、復活をたたえよう。主が来られるまで」と唱えますが、その時私たちのこの信仰と決意を新たに致しましょう。古代のギリシャ教父たちは、この「信仰の神秘」という言葉を唱える時、聖バジリオの製作に基づく第四奉献文にもあるように、「今ここに」時間空間を越えて現存なされる主に対する信仰を新たにしたと聞いています。私たちもその古い伝統を大切に致しましょう。

⑥ 本日の福音にある、五つのパンと二匹の魚で男たち五千人もの群集を満腹させた奇跡は、四つの福音書全てに扱われている出来事であります。二つ、あるいは三つの福音書に扱われている出来事は少なくありませんが、四つの福音書に共通して読まれる出来事は、主のエルサレム入城とご受難・ご復活以外には、このパンの奇跡だけです。それを思うと、使徒たちと初代教会は、このパンの奇跡を特別に重視しながら、語り伝えていたのではないでしょうか。しかし、それぞれの福音書は、多少違った視点からこの出来事を描写しています。例えばマルコ福音書には、「大勢の群集が」「飼い主のいない羊のような有様なのを深く憐れんだ」主が、いろいろと教えた後に、彼らを「組に分けて青草の上に座らせ」てから、この奇跡をなされたように描かれており、これらの表現から察すると、主を無数の人々を豊かに養う牧者として提示しようとする意図が感じられます。それに比べると、本日の福音であるルカ福音書の描写にはこれらの言葉が読まれず、弟子たちにこの奇跡を体験させ考えさせようとしておられる主のお姿の方に、もっと眼を向けているように思われます。ルカは、この出来事のすぐ前に、主がなされた様々の奇跡的出来事のことを耳にした領主ヘロデが、イエズスは一体何者なのかと当惑していることを述べ、このパンの奇跡のすぐ後で、主が弟子たちに「人々は私を何者だと言っているのか」、「では、あなた方は私を何者だと言うのか」と尋ね、ペトロが「神からのメシアです」と信仰告白する話を載せていますから、弟子たちに主は一体何者と考えさせる観点から、このパンの奇跡を描写したのだと思われます。

⑦ そのルカによると、大勢の群集に対する主の説教や癒しの働きが長引き日が傾きかけたので、12人の弟子たちが群集の食べ物のことを心配し、「群集を解散させて下さい。云々」と主に願いました。それに対して主は、「あなた方が彼らに食べ物を与えなさい」とお命じになり、彼らはすぐ「私たちには、パン五つと魚二匹しかありません。云々」と答えました。すると主は、人々を50人位ずつ組にして座らせ、その五つのパンと二匹の魚とを取って祈りを捧げてから、それらを裂いて弟子たちに渡し、群衆に配らせました。それが既に日が傾いた日没近い時間帯のことであり、全ての人がパンと魚を食べて満腹し、食べ残したパン屑を集めて12の籠をいっぱいにした時間なども考慮に入れると、パンと魚は、主お一人の手元でだけ、裂く度毎に次々と増えたのではないと思われます。50人位ずつ百組にも分かれて座るとなると、かなり遠くに座っている人々も多いのですから、そこへ主の御許から大量のパンと魚を運ぶだけでも、多くの時間が失われることになり、まだ全員に行き渡らない内に日が沈んでしまうことでしょう。そこで私は、パンと魚は弟子たちの手元でも、群集に渡す度毎に増えたのではないかと考えます。奇跡をなす主の力が、遠く離れている弟子たちの中にも現存して、糧を必要としている無数の人をリアル・タイムで養うことができるということを、主はこの奇跡により弟子たちに体験させ、主が全能の神よりの人であることを実践的に証したのではないでしょうか。

⑧ その主は、時間的空間的にもっと遥かに遠く離れている現代の私たちにも、司祭の献げるミサ聖祭の中で聖別されたパンとぶどう酒という形で、大きな恵みの糧を与えて下さいます。本日は、主のその愛と現存に対する信仰を堅め、このご聖体の秘跡に感謝する祭日であります。パンとぶどう酒という、食べ物と飲み物の中にご自身の御命を入れて無数の信仰者を内面から養い、その人々を通してこの世に世の終わりまで現存し続けるという、真に驚嘆に値する奇跡は、全能の神なればこそできる愛の御業、愛の恵みであり、私たち人間の側からは全く理解も説明もし難い現実、ただ心の意志で謙虚に受け止め信じることしかできない真実であります。ヨハネ福音書6章後半によると、主もこの真理の前に多くの理知的人間が躓き離れ去ることは覚悟しておられたようですが、それでも敢えて、「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなた方の内に命はない」「私の肉は真の食べ物、私の血は真の飲み物だからである」などと、人間理性を躓かすような言葉を幾度も断言しておられます。それまで主に従っていた弟子たちの多くは、この理解し難い言葉に躓いて主の御許から離れ去りました。しかし、主に心から信服していた使徒たちは、自分の頭で理解できなくても、主に信頼する心の意志で主の御許に留まり続け、後でそのお言葉の本当の意味を深く理解するに到りました。主は私たちからも、このような心の信頼、心の信仰を求めておられると思います。

⑨ 私は1969年の夏休みに高野山で三泊四日の研修を受けたのを初めとして、2000年まで31年間にわたってほとんど毎年のように、比叡山やその他諸宗派・諸宗教の本山や中心的拠点で二泊三日の研修を受けており、1980年代にはユダヤ教やイスラム教や東方正教会の所でも研修を受けましたが、神がご自身を人間の食べ物・飲み物となしてまで、これほど近く人類の中に現存し、内面から人類をまた宇宙世界全体を支え導いていて下さることを堅く信奉している宗教は、カトリックと東方正教会など、キリストの制定なされたミサ聖祭を堅持している宗教以外には、どこにも見られませんでした。その意味でも私は、まだミサ聖祭の偉大な価値を知らずにいる人類全体をも、この秘跡を通して豊かに祝福し、護り、支えておられる神に、私たちは全人類を代表して特別に感謝と賛美を捧げる責務があると痛感しています。日ごろの感謝の不足を反省し、本日はこれまで受けた数々のお恵みのためにも、主に心を込めて感謝致しましょう。