2010年5月30日日曜日

説教集C年: 2007年6月3日 (日)、三位一体(三ケ日)

2004三位一体(三ケ日)
朗読聖書: Ⅰ. 箴言 8: 22~31. Ⅱ. ローマ 5: 1~5. 
     Ⅲ. ヨハネ福音 16: 12~15.

① 三位一体の玄義は、人間理性にとっては最も解り難い神秘であります。人間の理性はこの世の三次元世界の事象を理解するために創られていますが、その世界を超える存在や現実については推測することはできても、的確に把握する能力には欠けています。例えば私たちは、何かの力・命・心などの外に現れた現象については解明できますが、力そのもの、命そのもの、心そのものについては見ることも感知することもできません。三位一体の神は、人間理性では感知も解明もできない、そういう力・いのち・心などの世界の奥にあって、この世の宇宙万物ばかりでなく、あの世の一切の存在をも根底から支え維持して下さっている、根源的神秘的ないのちであり、力であります。

② そのため、三位一体の祝日は我々人間にとって最もなじみ難い祝日だ、などと言う人もいますが、限りあるこの世の経験に基礎を置く人間理性の理解を中心にして生きるのではなく、葡萄の根であり幹である主キリストと内的に堅く結ばれて、神の働きに生かされて生きる心のセンスを、目覚めさせるよう努めましょう。そして主キリストや聖母マリアのように、神の僕・婢として、神の導きに従って生きるよう心がけましょう。最高のものは全世界・万物を創造なされた神とその働きであって、私たち人間は、本来その神に感謝し、神の導きに従って生きるよう創られている僕・婢のような存在なのですから。私たちがそのように心がけるなら、神の霊はそのように生活する人の心に、その時その時に必要なことは示し、悟らせて下さいます。心に与えられるその導きに従って生活しましょう。私の学生時代に昔のドイツ人宣教師に聞いた話ですが、理知的なヨーロッパの若者たちに三位一体の教義を説明するのは難しくて苦労するが、日本人には、「これは神秘な神の奥義で、我々人間の頭では理解できず説明もできないが、そのままに受け入れ崇めていると、神がその人の心に働いて下さり、だんだんに判らせ納得させて下さいます」というと、ほとんど抵抗せず、素直に喜んでこの教義を受け入れてくれるとのことでした。そこに私たち日本人の宗教心の一つの特徴があるのなら、その長所を生かすよう心がけましょう。私たち日本人には、神を理解しようとするよりも、心で神をひたすら崇め、その導きに素直に従うことによって助けてもらおうとする傾向が、強いのではないでしょうか。

③ 自分の理解を中心とする理知的な立場に立つ人には、本日の福音である主キリストの言葉もどことなく謎めいていて、心にピンと響いて来ないでしょうが、神への従順を中心としている人には、この福音は本当に有り難い啓示だと思います。三位一体の唯一神は、決してお独りだけの孤独な神ではありません。三方(さんかた)の神が、愛の内に相互に堅く結束して一つになっている共同体の神なのです。ですから、御父が創造なされた被造物が罪によって神に背を向け、神から内的に離れてしまっても、御子がその被造物世界の中に受肉して罪を償い、神の命に生かされることによって救われる道を被造物に提供することができたのであり、さらに聖霊が、信仰する人々の中で働き、全ての必要な真理や真実を実践的に悟らせ、必要な援助を惜しみなく与えて、三位一体の果てしなく大きな愛の交流の中に被造物世界を取り入れて、被造物を神の相互愛の交流に参与させ、輝かしいもの、実り豊かなものへと永遠に高めて下さるのです。私たちが自我を無にし、自分の心を空っぽの器にして神に提供するなら、三位一体の神はその心にも御住み下さり、時々は相互愛のお働きを体験させて下さいます。神秘な神の現存や働きに対する信仰は、理知的な頭の知識を増やすことによってではなく、このような体験の蓄積によって深まり強まるものだと思います。

④ 本日の福音には「その方は自分から語るのではなく、聞いたことを語り、云々」とありますが、これは聖霊がいつも御父・御子との愛における一体性の内に、被造物の中で働いて下さることを示しています。すなわち聖霊は、御父が御子を通して語られたことを聞いて告げ、御子を通して御父に光栄を帰するのです。自分中心にではなく、いつも相手のために、相手の働きに配慮しながら生きる、神の永遠の奉仕的相互愛をもって被造物世界の救いと高揚に尽くしておられるのです。その聖霊の器・神殿となり、聖霊の働きに導かれ助けられて生きよう、救われようと思うならば、私たちも自分の理解や欲求・計画などを中心にして生きることを捨て、聖霊と同様に、神の奉仕的愛に生かされ、神から出発して神に光栄を帰する生き方に努めなければなりません。全く誰からも注目されない「陰の人」のようであったとしても、構いません。聖霊のように、陰ながらこつこつと多くの人の救いのために祈り働き続けるならば、心の奥底では三位一体の愛の神との一体性が深まり、内的には強く逞しく仕合わせになれます。それが、主によって啓示された新約時代の信仰者の生き方ではないでしょうか。聖母マリアも、この世ではそのような信仰生活を営んでおられたと思います。

⑤ 聖霊の働き方は、私たちを絶えず下から支え伴っていてくれる土に譬えることもできましょう。土は踏まれても怒らず、人から何と言われても、決して腹を立てません。土はまた、汚い水をも拒まず、静かに受け入れ浄化して、奇麗な地下水に変えて行きます。木々も草花も農作物も、このような土とその中の地下水がなければ、育つことができません。私たちも、全てを黙々と受け入れ浄化して、積極的に生かし育てて行く土の心に学びましょう。誰に対しても怒らず、威張らず、あせらず、負けていない土の精神で生きようと努める時、その人の心に三位一体の愛の共同体精神と神の平安が宿り、その人を守り高めて下さいます。そしてその人は、どんな忌まわしい敵をも神において愛することができる程、全ての対立を超越して平穏に生きる内的力強さを身につけるようになります。

⑥ 本日の第二朗読には「このキリストのお陰で」「神の栄光にあずかる希望を誇りにしており」「苦難をも誇りとしています」という、力強い希望と喜びの言葉が読まれますが、聖書学者たちによると、新約聖書の中に23回登場する「誇り」という名詞は、ヤコブ書とヘブライ書にそれぞれ1回使われている以外は全てパウロの書簡に使われており、また39回登場する「誇りとしている」という動詞も、ヤコブ書に2回使われている以外は全てパウロの書簡にだけ使われています。この頻度から察しますと、使徒パウロにとって神・キリストにおける「誇り」は、何か特別な意味を持っていたように思われます。

⑦ このことと関連して考えさせられるのは、聖アウグスティヌスがその著作や説教の中で、50回も多用している ”sursum corda(心をあげよ)”という言葉です。ラテン語ミサの奉納祈願に続く序唱の初めに、司祭は今でも Sursum cordaと唱え、会衆は Habemus ad Dominum (私たちは主に向かって心を上げています)と答えており、英語のミサでもほとんどそのままの直訳で唱えられていますが、これは古代教会以来の古い伝統です。日本語のミサでは、司祭が「心を込めて神を仰ぎ」と唱え、会衆が「賛美と感謝を捧げましょう」と訳し換えられていますが、私はこの箇所で、心をしっかりと主の方に向けるよう心がけています。古代末期の大きな過渡期に生まれ育ち、崩れ行く異教世界の伝統的思想や文化の中で魂の不安を極度に体験していたアウグスティヌスは、キリスト教の神信仰の内に漸く魂の安らぎを見出して改心してからは、内面から瓦解して移り行く目先の社会や文化にではなく、何よりも神の建設的働きに心の眼を向けながら、信徒指導や著作活動に励んでいたようですが、神の働きに心の眼を向ける行為をSursum corda と呼んで、この言葉を事ある毎に頻発していたのではないでしょうか。使徒パウロが「誇りにしている」や「誇り」という言葉を頻発していたのも同様に、神の働きやキリストの救う力にしっかりと根ざし支えられて生きることを何よりも重視して、日々幾度もそのことに思いを馳せていたからなのではないでしょうか。

⑧ 未曾有の過渡期である現代に生きる私たちも、刻々と移り行く現代世界の激動には少し距離を置いて、何よりも三位一体の神の共同体的愛の働きに日々幾度も心の眼を向け、その働きに根ざして生きるように心がけましょう。そして大きな希望と誇りのうちに、三位一体の愛の交わりに参与して生きるという、キリストによって救われた全ての人が頂いている使命の達成に励みましょう。