2010年5月9日日曜日

説教集C年: 2007年5月13日 (日)、復活第6主日(三ケ日)

朗読聖書:Ⅰ. 使徒 15: 1~2, 22~29. Ⅱ. 黙示 21: 10~14, 22~23.
     Ⅲ. ヨハネ福音 14: 23~29.

① 復活節第六主日は、カトリック教会で「世界広報の日」とされていますので、本日のミサ聖祭は、世界のマスコミが虚偽や誤報を賢明に回避して、人々に真理と真実をなるべく正しく伝えるように、また特に子供たちの心の教育に有益な情報を流し、少しでも多くの人が不幸な対立の緩和に努めて、平和な世界の建設に努めるように、さらに主キリストの福音が一層多くの人に伝えられるよう、神の照らしと導きの恵みを願い求めて献げたいと思います。ご一緒にお祈りください。

② 本日の第一朗読には、ユダヤから下って来たある人たちが、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなた方は救われない」と説いたので、パウロとバルナバらとの間で激しい意見の対立と論争が生じた、とあります。本日の朗読箇所には省かれていますが、そう主張したのは、ファリサイ派から改宗して初代教会内に入って来た人たちだったようです。それでこの問題について協議するため、使徒たちと長老たちがエルサレムに集まり、パウロとバルナバを迎えて開催した会議の結論が、第一朗読の後半であります。

③ ファリサイ派からの改宗者たちは、皆真面目に神を信じ、神の国建設のために働こうとしていた熱心な信仰者たちであったと思います。しかし、彼らは自分たちが生まれ育って来た精神文化の枠内でのみ、主キリストの説いた新しい信仰を受け止めていたので、パウロたちと激しく論争するに到ったのだと思います。主が生前に、「ファリサイ派のパン種に警戒せよ」とおっしゃったのも、このことを指していたと思われます。2千年前のこういう問題は、現代の日本の教会とも無関係ではありません。自分たちの生まれ育った日本文化を中心に据えて、その立場から理解し共鳴できる範囲内に限定して、主キリストの説いた神の国を受け入れようと考えている人たちは、今の日本にもいると思われるからです。しかし、神の国、ギリシャ語でバジレイア・トゥ・テウは「神の支配」を意味しており、人間ではなく神が主導権を取って治められる国であります。使徒パウロたちの教えによると、自分と自分中心の精神に死んで、キリストの福音をそのまま素直に受け入れてこそ、神の霊が信ずる各人の心の中で自由に働き、豊かに実を結ばせて下さる、というのが新約時代の信仰生活のようです。主キリストも、「翻って幼子のようにならなければ神の国に入ることはできない」と説いておられます。伝統的日本文化の精髄も、まず神に主導権を譲って謙虚に生きようとする信仰者たちの中でこそ、その本来の輝きを発揮し、豊かな実を結ぶに到るのではないでしょうか。

④ 本日の第二朗読には、天から下って来た聖なる都エルサレムについて、「私は都の中に神殿を見なかった。全能の神・主と小羊とが都の神殿だからである。云々」という言葉が読まれます。これらの言葉も、新しい時代には神が直接その民の中に現存し、全てを照らして下さることを指しており、新約時代の私たちが、全てを神中心に神の光に照らされて企画し、行動すべきことを示唆していると思います。私たちは果たして日々、主イエスのように何よりも天の御父の御旨をたずね求めつつ、その御旨への幼子のような従順を基盤にして生活しているでしょうか。そしてこの世の人間理性主導のファリサイ派のパン種に、十分警戒しているでしょうか。

⑤ 本日の福音は、最後の晩餐の席上での話からの引用ですが、主はこの話の前に、「私の行く所にあなた方は来ることができない」「今はついて来ることができないが、後でついて来るであろう」「心を騒がせてはならない」「私は行って場所を準備したら、また戻って来てあなた方を私の所に連れて行こう」などの話をなさったので、主と別れなければならないと知った弟子たちの心は、次第に埋め難い空虚さと悲しみの気分に沈んでいったことでしょう。主はその弟子たちを慰め励ますために、新しい愛の掟を与えたり、私の掟を守るならば、父に願って「いつまでもあなた方と一緒にいてくれる助け主」真理の霊を遣わして頂くと約束したり、「私はあなた方を孤児にはしておかない。云々」などと話したりしておられます。本日の福音も、その話の続きです。

⑥ その終わりの方に「私を愛しているなら、私が父の許に行くのを喜んでくれるはずだ」というお言葉がありますが、この言葉の裏には「なぜ喜んでくれないのか」という反語の意味も込められていると思います。弟子たちの心は、主との別離の悲しみを痛感していたのではないでしょうか。それまでの伝統的文化や宗教生活が根底から崩壊しつつある不安な過渡期の社会にあっても、主と共に生活することで、ようやく希望と喜びのうちに生きる道をつかみかけていた弟子たちにとっては、主との死別は自分の人生の意味を見失うことを意味していたでしょうから、彼らの心が主の死を恐れ、主からいろいろと慰めの言葉を聞かされても、なかなかその深刻な悲しみから立ち直れずにいたのは、想像に難くありません。

⑦ そこで主はさらに、「私を愛する人は私の言葉を守り、私の父はその人を愛されるであろう」と、天の御父がもっと直接に弟子たちを愛して下さることを宣言し、「父と私とはその人の所に行き、一緒に住む」「あなた方が聞いている言葉は私のものではなく、私をお遣わしになった父のものである」などと、人間イエスの体は死んでも、内的には天の御父も主イエスも、主のみ言葉を保持して生きる弟子たちの中に入って、一緒に住むようになることを、また天の御父はどこか遠くにおられるのではなく、既に主において彼らの身近に現存し、彼らに語っておられるのであることを説明します。

⑧ それだけではなく、主は、その御父が主イエスの御名によって弟子たちにお遣わしになる弁護者・聖霊が、主が弟子たちに話したことをことごとく思い起させ、全てのことを教えて下さることも約束なさいます。そして最後に、「私は平安をあなた方に残し、私の平安を与える」とおっしゃいましたが、その平安はこの世が与えるような外的共存の平和ではなく、神の愛に根ざしたもっと大きな内的平安であり、弟子たちの心がたとい主の受難死によって一時的に大きく動転しても、やがて心のその激動を内面から抑えて立ち直る力も込めて、主はその平安をお与えになったのではないでしょうか。ご自身の受難死を目前にしておられたのに、人間としてのご自身の苦悩は後回しにして、ひたすら弟子たちの悲しみ、苦しみに配慮して下さる主の愛には感動を覚えます。主は私たちにも、同じ至れり尽くせりの配慮を持って伴い、陰ながら世話して下さっているのではないでしょうか。私たちに対する主のこれほどの愛の思いやりに感謝しながら、マスコミの浄化発展のため、本日のミサ聖祭を献げましょう。