2010年5月23日日曜日

説教集C年: 2007年5月27日 (日)、聖霊降臨(三ケ日)

2004聖霊降臨(三ケ日)
朗読聖書: Ⅰ. 使徒 2:1~11. Ⅱ. ローマ 8:8~17.
     Ⅲ. ヨハネ福音 14: 15~16, 23b~26.


① 本日の第一朗読は、過越祭から五十日目の五旬祭に弟子たちの体験した劇的聖霊降臨の出来事を伝えていますが、本日の朗読箇所に続く使徒言行録2章の後半を読んでみますと、聖霊に満たされた無学な使徒たちの説教に心を動かされて、「その日」受洗した人たちは「三千人ほど」と記されています。この少し後にペトロとヨハネが、神殿で生れながら足の不自由な人を奇跡的に癒して説教し、サドカイ派の人たちに最初に捕らえられた頃の入信者は、使徒言行録4章の始めに、「男の数が五千人ほど」と書かれていますから、このわずかな日時の期間に挙げた大きな実績から考えても、この出来事は真に大きな奇跡であり、教会がこの日を新約時代の神の民「教会」の誕生日としてお祝いするのも、当然だと思います。

② ところで、使徒言行録6章の7には、「こうして神の言葉はますます広まって、弟子の数はエルサレムで非常に増えて行き、祭司も大勢この信仰に入った」とあります。ここで「祭司」とあるのは、サドカイ派の祭司貴族のことではなく、神殿の大きな収入をほとんど独占的に管理していたサドカイ派からは、抑圧されていた貧しい下級祭司たちを指していると思います。エルサレムではなくユダヤの山地に住んでいた洗礼者ヨハネの父ザカリアも、そういう下級祭司の一人でしたが、彼らの間では預言者的精神が重んじられていたようで、この下級祭司出身者らが中心になって、クムランなどの土砂漠で集団生活を営むエッセネ派が生まれたようです。第二次世界大戦の直後頃に『キリストと時』という名著を出版して有名になった、プロテスタントの聖書学者で古代教会史家のOscar Cullmannは、当時のユダヤ歴史家Flavius Josephusがユダヤで4千人ほどと書いているこのエッセネ派が、聖霊降臨直後頃にほとんど皆キリスト教信仰に転向したと考えています。としますと、初期のキリスト者たちはエルサレムで受洗しても、そのほとんどはエルサレムに住んではいなかったように思われます。またエジプトにも、エッセネ派と関係深いユダヤ人たちのグループがありましたので、キリスト教信仰が比較的早くエジプトに広まったこともよくわかります。

③ 本日の福音は、最後の晩餐の席上での話からのものですが、主はこの話の前に、「私の行く所にあなたたちは来ることができない」、「今はついて来ることができないが、後でついて来るであろう」、「心を騒がせてはならない」、「私は行って場所を準備したら、また戻って来てあなたたちを私の所に連れて行こう」等々の話をなさったので、主と別れなければならないと知った弟子たちの心は、次第に埋め難い空虚さと悲しみの気分に沈んでいったことと思われます。主はその弟子たちを慰め励ますために、新しい愛の掟を与えたばかりでなく、私の掟を守るならば、父に願って「いつまでもあなたたちと一緒にいてくれる助け主」真理の霊を遣わして頂くと約束したり、「私はあなたたちを孤児にはしておかない。云々」などと話したりしておられます。本日の短い福音も、その話の続きであります。

④ しかし、主のそれらのお言葉を聞いても、弟子たちの心は、まだ別離の悲しみを痛感し沈んでいたのだと思われます。主と共に生活することで、それまでの伝統的文化も宗教生活も根底から崩壊しつつある不安な過渡期の社会にあっても、ようやく希望と喜びのうちに生きる道をつかみかけていた弟子たちにとっては、主との死別は自分の人生の意味を見失うことを意味していたでしょうから。主からいろいろと慰めの言葉を聞かされても、彼らの心がなかなかその深刻な不安と悲しみから立ち直れずにいたのは、想像に難くありません。

⑤ そこで主はさらに、本日の福音にあるように、「私を愛する人は私の言葉を守り、私の父はその人を愛される」と、天の御父・神がもっと直接に弟子たちを愛して下さることを宣言し、「父と私とはその人の所に行き、一緒に住む」、「あなた方が聞いている言葉は私のものではなく、私をお遣わしになった父のものである」などと、たとえ人間イエスの体は死んでも、また目には見えなくても内的には天の御父も主イエスも、主のみ言葉を保持して生きる弟子たちの中に入って、一緒に住むようになるのであることを説明します。天の御父・神は、どこか遠くにおられるのではなく、すでに主において彼らの身近に現存し、彼らに語っておられるのであることも説明しています。

⑥ それだけではなく、主はその上に、天の御父が主イエスの御名によって別の弁護者・聖霊を弟子たちにお遣わしになり、その聖霊が主が弟子たちに話したことをことごとく思い起させ、全てのことを教えて下さることも、約束なさいます。ご自身の受難死を目前にしておられたのに、人間としてのご自身の苦悩は後回しにして、ひたすら弟子たちの悲しみ、苦しみのことに配慮して下さる主の愛には、感動を覚えます。主は現代の私たちに対しても、同じ至れり尽くせりの配慮で、陰ながら世話して下さっているのではないでしょうか。私たち各人の心をも、聖霊の賜物で支え、慰め、強めて下さっていると信じましょう。そして主の深い愛の思いやりに感謝しながら、本日のミサ聖祭を献げましょう。

⑦ 話は違いますが、マタイ福音書3章とルカ福音書3章によると、洗礼者ヨハネは「私は水によって悔い改めの洗礼を授けるが、私の後においでになる方は」「聖霊と火によってあなた方に洗礼をお授けになる」と語っています。洗礼者ヨハネが予見して語った「聖霊と火による洗礼」が、本日私たちの記念している聖霊降臨なのではないでしょうか。なお、ヨハネ福音書3章後半と4章初めの記事によると、洗礼者ヨハネがヨルダン川西のサリム辺りで洗礼を授けていた頃、主キリストもユダヤで弟子たちと一緒に洗礼者ヨハネよりも多くの人に水の洗礼を授けていたそうですから、弟子たちは聖霊と火による洗礼以前にも、主キリストによる水の洗礼も受けていたと思われます。主が授けて下さった水の洗礼によって、魂の奥底が一旦古いこの世的自我中心の命に死んで新しい神の命に生き始め、その命がゆっくりとある程度成長して来た後に、今度は聖霊と火による洗礼を受けるに到ったのではないでしょうか。この聖霊と火による洗礼は、まだ彼らの心に残っていた古いこの世的自我中心の生き方を大きく弱体化し、彼らを、キリストを頭とする、キリストのあの世的一つ体の細胞のようにして統合し、同じ一つのあの世的命、すなわちキリストの命に生かされて生きる存在に高めてくれたのではないでしょうか。

⑧ 新約時代の神の民・教会は、こうして生まれたのです。ですから本日は、新しいキリストの体、キリストの教会の誕生日と言ってもよいと思います。そのキリストの体に属する細胞の間を還流する血液のようにして、各細胞の老廃物を除去し、各細胞を内面から刷新し力づけてくれるのが、神の聖霊であると考えてよいと思います。現代の私たちも、使徒時代以来のこの聖霊の働きを血脈(けちみゃく)のようにして連綿として受け継いでいると信じます。私たちの魂の中での聖霊のこの働きを、私たちの実存として生きる決意を新たにしながら、本日の感謝の祭儀を献げましょう。