2010年7月11日日曜日

説教集C年: 2007年7月15日 (日)、2007年間第15主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 申命記 30: 10~14. Ⅱ. コロサイ 1: 15~20.
     Ⅲ. ルカ福音書 10: 25~37.


① 本日の第一朗読の中で、モーセは「あなたの神、主の御声に従って、…あなたの神、主に立ち帰りなさい」と言った後に、「この戒めは難し過ぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。…御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」と話しています。長年待望して来た約束の地を目前にして、モーセの語ったこの言葉は、私たちの信じている神をどこか遠い海の彼方や、天高くに離れておられる方と考えないように、神はいつも私たちのごく近くに、ある意味では私たち自身の頭の考えよりも私たちの心の近くにおられて、私たちの話す言葉や私たちの心の思いの中でまでも働いて下さる方なのだ、と強調しているのではないでしょうか。察するに、モーセは自分の口や心の中での神のそのような神秘な働きを実際に幾度も体験し、神の身近な現存を確信していたのだと思われます。私たちも神のこの身近な臨在に対する信仰を新たにしながら、その神のひそかな御声に心の耳を傾け、神の働きに導かれて生活するよう心がけましょう。それが、私たちの本当の幸せに到達する道であると信じます。

② 本日の福音には、一人の律法の専門家が主に「永遠の命をいただくには、何をしなければなりませんか」と尋ねていますが、当時の律法学者たちは、旧約聖書に書かれている数多くの法や掟を、私たちの言行を律する外的理知的な法規のように受け止め、人間の力ではそれらを全部忠実に守り尽くすことはできないので、それらの内のどの法、どの掟を守ったら永遠の命をいただいて幸せになれるかを論じ合っていたようです。この律法学者も、その答えを主に尋ねたのだと思います。主が「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」とお尋ねになると、その人はすぐ「心を尽くし精神を尽くし、云々」と、申命記6章に読まれる愛の掟を口にしました。この掟は、今でもユダヤ教の安息日の儀式の中ほどに、声を大にして唱えられている、特別に重要視されている掟であります。ですから、その人の口からもすぐこの掟がほとばしり出たのでしょう。主は、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」とお答えになりました。しかしその人は、毎週幾度も口にしているこの掟の本当の意味内容を理解できずにいたようで、実行と言われても、何をどう実行したら良いのか判らず、「では、私の隣人とは誰ですか」と、まず隣人について主に尋ねました。主がそれに答えて話されたのが、「善きサマリア人の譬え」と言われる話であります。

③ ある人がエルサレムからエリコへ下って行く、石と岩ばかりが累々と10数キロも続く長い淋しい荒れ野の坂道で、追いはぎに襲われて衣服まで奪い取られ、半殺しにされてしまいました。そこに一人の祭司が、エルサレムでの一週間の務めを終えて帰る途中なのか、通りかかりました。しかし、その人を見ると、道の反対側の方を通って行ってしまいました。聖なるエルサレム神殿での聖なる勤めにだけ奉仕していて、穢れたものや血の穢れのあるものには関わりたくない、という心が強かったのかも知れません。同じように、神殿に奉仕しているまだ若いレビ人も通りかかりましたが、その人を見ると、道の反対側を通って過ぎ去って行きました。日頃綺麗な仕事にだけたずさわっていることの多い私たち修道者も、神の導きで全く思いがけずに助けを必要としている人に出遭ったら、その人を避けて過ぎ去ることのないよう、日頃から自分の心に言い聞かせていましょう。

④ 1962年の夏、私が夏期休暇でドイツのある修道院に滞在した時、その近くにあったアメリカ軍のバウムホルダーという、人口3万人程の大きなキャンプ場からの依頼で、そのキャンプのホテルに二週間滞在し、アメリカ人と結婚している日本人女性数人に洗礼前の教理を教えたことがありました。日曜日のミサに出席しましたら、ちょうど本日のこの福音が読まれ、その時の米軍チャプレンは説教の中で、信徒に具体的にわかり易く説明しようとしたのか、少し笑みを浮かべながら通り過ぎた祭司をユダヤ教の「神父」、レビ人を「神学生」と呼んでいました。現代のカトリック聖職者も気をつけていないと、苦しんでいる人や助けを必要としている人に対して、冷たく対応してしまうおそれがあるかと思います。皆生身の弱さを抱えている人間です。気をつけたいと思います。

⑤ 譬え話に戻りますと、最後にサマリア人の旅人、おそらく商用で旅行している人が来て、その傷ついた人を見ると、憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして自分の驢馬に乗せます。そして宿屋に連れて行って介抱します。ここでルカが書いている「見て、憐れに思い、近寄る」という三つの動詞の連続は、主がナインの寡婦の一人息子を蘇らせた奇跡の時にも登場しており、ルカが好んで使う一種の決まり文句のようも見えます。なお、「憐れに思う」という動詞は、新約聖書に12回使われていますが、主の譬え話の中で放蕩息子の父親や、僕に対する主人の行為として、また半殺しにされた人に対するサマリア人の行為として3回使われている以外は、新約聖書では全て主イエズスの行為、または神の行為としてのみ使われています。従って、譬え話にある放蕩息子の父親も僕の主人も、共に神を示しているように、この善いサマリア人の譬え話においても、サマリア人の中に愛の神が働いておられる、と考えてよいと思います。

⑥ 主はこの譬え話をなされた後で律法の専門家に、「この三人の中で、誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」とお尋ねになります。そして律法学者が「その人に憐れみの業をなした人です」と答えると、「あなたも行って、同じようにしなさい」とおっしゃいました。ここで、律法の専門家の「私にとって隣人は誰ですか」という質問に戻ってみましょう。主が「あなたにとって隣人はこの人です」と具体的に隣人を示して下さっても、その人に対する愛が生ずるとは限りません。この人を愛するよう神から義務づけられていると思うと、人間の心は弱いもので、その人に対する愛よりも嫌気が生じて来たりします。ですから主は、外から法的理知的にその人の隣人を決めようとはなさいません。実は、愛が自分の隣人を産み出すのです。しかもその場合、相手が自分に対して隣人になるのではなく、その人を愛する自分が、相手に対して隣人になるのです。このようにして主体的積極的に隣人を産み出し、隣人愛を実践することが、律法学者が始めに尋ねた「永遠の命をいただく」道なのです。同じことは、夫婦の相互愛についても言うことができると思います。そのようにして隣人愛・夫婦愛に生きる人の中で、苦しんでいる人・助けを必要としている人を見て、憐れに思い、近寄って助けて下さる神が働くのであり、その人は、自分の内に働くこの神の愛を、数々の体験によってますます深く実感し、自分の心が奥底から清められ高められて、日々豊かに強くなって行くのを見ることでしょう。私たちがそのような幸せな神の愛の生き方を実践的に会得できるよう、照らしと導きの恵みを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。