2016年1月24日日曜日

説教集C2013年:2013年間第3主日(藤沢の聖心の布教姉妹会で)

第1朗読 ネヘミヤ記 8章2~4a、5~6、8~10節
第2朗読 コリントの信徒への手紙一 12章12~30節
福音朗読 ルカによる福音書 1章1~4節、4章14~21節

    本日の第一朗読であるネヘミヤ記は13章から成っていて、7章までの前半はエルサレム城壁の修築について、8章からの後半は祭司エズラによる律法の公布と、総督ネヘミヤによるユダヤ社会の改革について扱っています。70年間余り続いたバビロン捕囚の後、バビロニアを滅ぼしたペルシャ帝国の王から、ユダヤ人たちに故国に帰って神殿を再建することが許され、必要な権限や資金も与えられると、ユダヤ人全員ではありませんでしたが、帰国したユダヤ人たちは、紀元前515年にまだ真に小さいながらも一応神殿を再建しました。しかし、隣国のサマリアを統治していたペルシア帝国の総督は、サマリア人たちをその神殿の再建にも儀式にも参加させず、サマリア人と共に生きようとしないユダヤ人たちの政治経済的再興に協力しなかったため、エルサレムは間もなく経済的に行き詰まり、やがて周辺諸部族による襲撃も受けて、神殿礼拝も行われなくなる程悲惨な状態になったようです。
    そこで、ペルシャの第二の都スサで帝王アルタクセルクセス1世に愛されて奉仕していたユダヤ人高官ネヘミヤは帝王に願い、エルサレム再建のために必要な権限と援助を与えて派遣してもらい、まずエルサレムを周辺の諸部族による襲撃から身を守るため、片手に剣を持たせ、片手に煉瓦を積み上げさせながら、壊されたエルサレムの城壁を修復させました。この工事が完成すると、ネヘミヤは一旦スサの都に戻って帝王から新たに権限と援助を受け、大祭司の家系出身者でモーセ五書の律法に精通していた祭司エズラの教えに基づき、ユダヤ社会を律法を基礎として再建することに尽力しました。
    エルサレムでのその宗教的祖国再建の初日についての話が、本日の第一朗読であります。祭司であり書記官であるエズラが、用意された木の壇の上に立ち、会衆に向かって荘厳に律法の書を読み聞かせ、レビ人がその意味を解き明かす行為を夜明けから正午頃まで繰り返し続け、最後に総督ネヘミヤと祭司エズラと解説したレビ人たちが、「今日は我らの主にささげられた聖なる日だ」と宣言して、この日を喜び祝うことにしたのでした。「嘆いたり泣いたりしてはならない」とあるのは、神から与えられたその律法を知らなかったために為していたこれまでの生き方の罪深さに囚われて、後ろ向きの後悔や悲しみに終始していてはならない、という意味だと思います。神によって自分の失敗、自分の罪に気づかせて頂いたなら、謙虚にそれを受け止めると同時に、感謝と新しい希望の内にすぐその失敗、その罪から立ち上がって生き始めたら良いのですから。ちょうど重い十字架を背負わせられた主イエスが、ゴルゴタへの途中で幾度倒れても、倒れたままに留まることなく、すぐにそこから立ち上がって歩まれたように。
    大祭司の家系の出身で、モーセ五書などの律法の研究に精通していた書記官エズラは、キリスト時代のファリサイ派からは「最初の律法学者」として尊敬されていた人であります。ネヘミヤ総督による祖国再建を、律法の研究と順守という宗教運動・宗教活動の基礎堅めによって支援し、その後のユダヤ社会を周辺諸国の異教文化や異教的慣習からきっぱりと分離独立したもの、エルサレムの神殿礼拝も民衆の宗教生活も、異教からは完全に分離独立した「ユダヤ教」と言われる宗教的流れにして、メシアを迎える信仰基盤や信仰教育を産み出した功労者でもあります。しかし私たちは、使徒パウロがガラテヤ書324~25節に書いている、次の言葉も忘れないようにしましょう。「こうして律法は、私たちが信仰によって正しい者とされるように、私たちをキリストに導く養育係となりました。しかし、この信仰の時代が来ましたので、私たちはもはや養育係の下にはおりません」という言葉であります。使徒がここで律法について書いていることを、現代の私たちは「カテキズム」と言い換えて受け止めることも、できると思います。
    旧約の律法もカテキズムも、私たちの心を神信仰・キリスト信仰に深く進ませるために神から与えられた貴重な恵みであり、信仰教育であります。この段階ではまだ私たち各人の頭に与えられている自然的人間理性が主導権を握っており、自力で理解したり決定したりしています。しかし神は、私たちの心がいつまでもその養育係の下に留まっていることを御望みにならず、聖霊の恵みを受けて神の霊的な導き・働きなどを正しく感知してそれに従う、私たちの奥底の心に神から与えられている預言者的信仰能力と従順心を目覚めさせ、この奥底の魂の霊的能力を磨いて神の僕・婢として神の御声、キリストの御声に従って生きる、新約時代に相応しい新しい信仰生活を営むことを強く求めておられます。この奥底の魂の能力は、理知的な能力ではありません。何よりも神よりの導きを鋭く感知しそれに従うことを第一にしている、あの世的な能力、預言者的な信仰能力であります。そこで主導権を握っているのは、もはやこの世の理性ではなく、あの世の霊であります。律法も「カテキズム」も、私たちの奥底の魂がこの霊によって主キリストの御声を聞き分け、それに従って生きるようになるまでの養育係であると思います。いつまでも人間の理知的聖書解釈中心の、頭の信仰生活に留まっていてはなりません。善い羊飼いであられる主は、もっと直接にその時その時の主の御声を正しく聞き分けて、従ってくれる羊たちを求めておられるのですから。

    そのような羊たちは、仏教や他の宗教の中にもたくさんいると思います。主は善い羊飼いの譬え話の中で、「私にはまだこの囲いに入っていない羊たちもいる。私は彼らも導かなければならない。彼らも私の声を聞き分ける。こうして一つの群れ、一人の羊飼いとなる」などと話しておられるからです。この世の人生を営んでいる間の外的宗教思想は、多様化していても構わないと思います。あの世に行けば、全ては神ご自身によって清められ高められて、完全なものに補足修正されるのですから。ただ大切なのは、奥底の魂が目覚めて、神の僕・婢として主の御声を正しく聞き分け、日々主の御声に従って行く、従順心に生きている否かだと思います。「信仰年」に当たり、自分の日常茶飯事を振り返り、自分の魂が果たして主の御声を聞き分けているか否かを吟味してみましょう。そして自分の理解や考えを第一にする頭の信仰生活ではなく、何よりも主の御声に従順に聴き従う実践を優先する心の信仰生活を営むように努めましょう。