2009年11月8日日曜日

説教集B年: 2006年11月12日、年間第32主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 列王記上 17: 10~16.   Ⅱ. ヘブライ 9: 24~28.  
  Ⅲ. マルコ福音 12: 38~44.


① 本日の三つの朗読聖書は、いずれも私たちにとって貴重なもの、それ無しでは生きられないほど大事なものを神に献げて、神に恵みを願う、あるいは神から恵みを受ける話だと思います。第一朗読は、預言者エリヤが神の言葉を受けて予言した通り、3年間余り雨が全く降らないために、人々が旱魃で食べ物に困窮していた時の話ですが、エリヤは初めは神の言葉に従ってヨルダンの東にある小さなケリト川のほとりに身を隠し、その川の水を飲みながら、数羽の烏が朝晩に運んで来るパンと肉に養われていました。聖書のこんな話を読むと、その烏はどこかのパン屋と肉屋の店先から盗んで来たのだろう、などと想像する人がいるかも知れません。しかし、この大飢饉の時には、どこの家でも乏しいパンや肉を烏に盗まれるような所には置かなかったと思われます。神が烏に与えて運ばせたのだと思います。暫くしてケリト川の水も涸れてしまうと、神はエリヤに、「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め、私は一人の寡婦に命じて、あなたを養わせる」とおっしゃいました。
② 本日の第一朗読は、それに続く話であります。旧約時代には、寡婦は孤児や寄留者たちと共に貧しく弱い人々の代表のように見做されており、日頃の蓄えが少ないため、旱魃の時にはこの人たちが真っ先に苦しんでいたと思います。それだけに、神の助けに縋ろうとする信仰心も強かったでしょう。そこにエリヤという預言者的風格の人が訪ねて来て、水やパンを願ったのですから、明日のパンもない程貧しい状態でしたが、彼女はその言葉に従います。そして苦しい旱魃の時が過ぎ去るまで、パンにも油にも事欠かない生活を続けるという素晴らしい恵みを、神から預言者を通して受けるに至りました。貧しい客人(まろうど) エリヤは、ここでは救い主のシンボルだと思います。そういう客人を手厚くもてなすことによって、神より豊かな恵みを受けたという話は、古来西洋にも東洋にも数多くあり、客人(まろうど) 信仰と言われる風習も各地に残っています。四国のお遍路さん接待の慣習も、その一種だと思います。合理主義一辺倒の現代文明の中では、こういう温かい思いやりの信仰を持っていない人が非常に多いと思いますが、私たちは、聖書の教えに従ってその信仰を大切にしていましょう。主キリストは実際に、貧しい人、弱い人と共にそっと私たちを訪ね、その人たちに何かの温かい奉仕をするよう、お願いになることが少なくないように信じるからです。それは理屈の問題ではありません。そういう親切を幾度も続けている人の心に、その体験の蓄積からごく自然に育って来る確信だと思います。恐らくお遍路さん接待の慣習を持つ四国の人たちも、数多くの実践体験に基づいて同様の確信を持っていると思います。
③ 本日の第二朗読は、主キリストがご自身をいけにえとなしてただ一度天の御父に献げることにより、世の終りまでの全人類に救いの恵みをもたらす存在になられたことを教えていますが、その中で「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることとが決まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた」とある言葉に、本日は少し注目してみたいと思います。というのは、余談になりますが、今年の秋に民法のテレビで、輪廻転生のことが実体験に基づいて説かれているのを、ちょっとだけ観たからです。今現に生きている人が、自分が一度も行ったことのない遠い地方の昔の人のことを、自分の体験を思い出すかのようにして事細かに語り始め、その話の中にある、本人はこれまで全く知らずにいた様々な地名や人名や年次などが、第三者が調べてみると、その故人の人生にそっくり適合しているので、テレビはその人をその故人の生まれ変わりであると結論していました。輪廻転生の思想は紀元前数世紀の昔からインドやギリシャで説かれており、わが国にも仏教と共に伝わって、平安時代の初期に成立した『日本霊異記』などに描かれていますが、察するに、同様の数多くの体験がその地盤をなしているのだと思われます。しかし、もし万一その思想が正しいとしますと、聖書の引用句は誤りになりますが、それは受け入れられません。
④ では、古来無数にあるそれらの体験はどう考えたらよいのでしょうか。ここで、私の人生体験に基づく個人的見解をご参考までに紹介してみましょう。信じない人もいるかも知れませんが、私は死者の霊が幽霊という形でこの世の人に現れるのを、数多くの実例から信じています。私がローマに留学していた頃に南イタリアのカプチン会修道院でミサを献げておられた聖ピオ・ピエトレルチーナは、アシジの聖フランシスコのように聖痕を受けた聖者でしたが、しばしば煉獄の霊魂たちの現われや訪問を受けて、その救済のために祈っておられたと聞いています。私も今は亡きドイツ人宣教師たちの模範に倣って度々あの世の霊魂たち、特に今苦しんでいる霊魂たちのために祈ったりミサを献げたりしていますが、するとあの世の霊魂たちに助けてもらったのではないか、と思うようなことを幾度も体験し、ある意味ではあの世の霊魂たちと親しくしています。岐阜県である会社の独身寮にたくさんの幽霊が現われ、若い社員たちが恐れから浮き足立って会社を辞めると言い出した時、私が社長に頼まれてそこでお祈りしましたら、幽霊は全然現れなくなりました。そして私の話を聞いて、社員たちは誰も辞めませんでした。信仰に堅く立ち、あの世の霊魂たちの救いのために祈っている人にとっては、幽霊は決して怖いものではありません。しかし、あの世の霊魂は、この世の人の夢に現れたり、稀にこの世の人の心の中に自分の記憶や思いを乗り移らせることもあるのではないかと思います。それをその人に前世があったと誤解する所から、輪廻転生思想が生まれたのではないでしょうか。立証不十分のそんな思想に振り回されて、各人には一度きりの人生しかないと教えている、聖書の啓示を疑うことのないよう気をつけたいと思います。
⑤ 本日の福音は前半と後半の二つの部分から構成されていますが、前半では当時の律法学者たちが厳しく批判されています。主の話によると、彼らはタリーットと呼ばれるクロークを人目を引くように少し長めにして歩き回り、広場で挨拶されることや、会堂や宴会で上座につくこと、人前で長い祈りをなすことなどを楽しんでいたようです。こういう話を読むと、私はエルサレムの「嘆きの壁」を訪れた時、真っ黒の長いクロークを着た長ひげのラビがその壁の一隅で椅子に腰掛け、人々から写真に撮られるのを喜んでいた姿を思い出しますが、数はごく少数でも、今でもそのようなラビたちがいるのかも知れません。主はそのような人たちについて、「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」と、恐ろしい警告を口にしておられます。神に対する信仰や奉仕は二の次にして、宗教を見世物のようにしているからなのでしょうか。私たちも気をつけましょう。宗教生活、修道生活は、何よりも神に見て戴くため、神に喜んで戴くためのものだと思います。
⑥ 福音の後半は、エルサレム神殿の大きな賽銭箱が幾つも並んでいる所での話です。当時は商売繁盛を願う異教徒の貿易商たちも、ギリシャやローマの通貨を聖書の言葉が刻まれたユダヤ通貨に両替して、気前よくどんどん投げ入れていました。それを弟子たちと共に横から眺めておられた主は、やがて貧しい寡婦が人々の陰に隠れるようにして、そっとレプトン銅貨2枚を投げ入れるのを御覧になりました。レプトン銅貨はギリシャの最小額通貨で、今日の百円ぐらいの値打ちしかありませんが、そんな通貨を1枚や2枚持って行っても、当時の神殿両替屋では軽蔑され、ユダヤ通貨に換えてもらえなかったのかも知れません。寡婦は、神殿の賽銭箱に投げ入れてはならないとされているその異国の通貨を、人目を盗んでそっといれたのではないでしょうか。それを目敏く御覧になった主は、たとえ異国の通貨であろうとも、明日の食べ物を買う金もない寡婦が、その最後の全財産を神殿に献げて真剣に祈る姿に御心を大きく揺り動かされ、その献金を他のどんな献金よりも喜ばれたのではないでしょうか。福音には何も語られていませんが、神はその寡婦の献金に豊かにお報い下さったと信じます。神に対する献金や奉仕や祈りにとって大切なのは、その外的な数量ではなく、そこに込められたその人の心であると思います。人は外的な数量や美しさ・偉大さなどに目を奪われ勝ちですが、神は何よりもその人の心に眼を向け、心を御覧になっておられるのですから。旧約聖書にも新約聖書にも「心」という言葉が非常に多く登場していますが、私たちももっと心に留意し、心を尽くして神を愛し、心を込めて神に祈るよう心がけましょう。その恵みを祈り求めつつ、本日のミサ聖祭をお献げしたいと思います。