2009年12月6日日曜日

説教集C年: 2006年12月10日、待降節第2主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. バルク 5: 1~9.  Ⅱ. フィリピ 1: 4~6, 8~11.
     Ⅲ. ルカ福音 3: 1~6.


① 本日の第一朗読は第二正典のバルク書からの引用ですが、預言者エレミヤの友人で秘書でもあったバルクは、バビロニアによってエルサレムの町が焼き払われ、支配階級に属する人々数万人がバビロンに連行された時、一緒にバビロンに行ったようです。このバルク書の始めには、エルサレム滅亡から5年目のある日、すなわち紀元前581年の事だと思いますが、ユダ王の王子エコンヤをはじめ、バビロンのスド川のほとりに住む全ての人々が涙を流し、断食して主に祈ったことや、各々分に応じて金を出し、それをまだエルサレムに残っている大祭司ヨアキムと他の祭司たち、及び民全体にあてて送ったことなどが記されています。この送金に添えた書簡の形で書かれたのが、バルク書であります。廃墟と化した当時のエルサレムにはエレミヤもいて、有名な「哀歌」を書き残していました。

② バルク書の前半には、バビロン捕囚のユダヤ人たちが重なる災禍によって深く遜り、自分たちの罪の赦しを神に願っていることなどが記されており、後半は、この改心が神に受け入れられた暁には、エルサレム帰還が許されるであろうという、希望と慰めと励ましの教訓的詩になっています。その結びである第5章全体が、本日の第一朗読であります。エルサレムは擬人化されて、神の民イスラエルの母であるかのように描かれていますが、こういう表現は新約時代の神の民であるカトリック教会にも受け継がれ、聖母マリアが救われる神の民全体の母として崇められたり、教会そのもののシンボルとされたりしています。私たちも、聖書に基づくこの古い温かい伝統を大切にしつつ、教会の一致に心がけましょう。

③ 本日の福音には、突然ローマ皇帝ティベリウスの名前が真っ先に登場しています。なぜでしょうか。ルカは、救いの歴史の出来事をその時代の世界史的現実や状況と関連させて描こうとしていたからだと思います。主の御降誕の場面でも、まず皇帝アウグストゥスの名前を登場させています。ここではまず、メシアの先駆者ヨハネが神の言葉を受けて語り始めた時の時代的状況を、読者に示そうとしています。それは、それまでの伝統的秩序が大きく乱れ始めて、皇帝アウグストゥスの時代には一つに纏まっていた国家も、複雑に多様化し始めた時でした。

④ ティベリウスは紀元12年に高齢のアウグストゥスと共同支配の皇帝とされたので、この年が治世の第一年とされています。従って、治世の第15年は紀元26年になりますが、紀元14年夏にアウグストゥスが没すると、いろいろな勢力の言い分が複雑に絡み合って混迷の度を深めつつあった当時の多様化政治に嫌気がさし、自分の親衛隊長であったセヤーヌスに政治を任せて自分はカプリ島に退き、何年間も静養を続けていました。このセヤーヌスはユダヤ人が大嫌いで、紀元6年から14年まではユダヤ人の気を害さないようにしながら統治していたローマのユダヤ総督3人の伝統を変えさせ、15年からはユダヤ人指導層に強い弾圧を加えさせました。それで紀元5年から終身の大祭司になっていたアンナスは15年に辞めさせられて、アンナスの5人の息子が次々と大祭司になりましたが、彼らも次々と辞めさせられ、18年にはアンナスの娘婿カイアファが大祭司になって、何とか第四代ローマ総督Valerius Gratusの了承を取り付けました。しかしユダヤ人たちは、律法の規定によりアンナスを終身の大司祭と信じていましたから、表向きの大祭司カイアファの下で、アンナスも大祭司としてその権限を行使していました。これは、それまでには一度もなかった異常事態でしたが、ヘロデ大王の時には一つに纏まっていたユダヤの政治権力も分裂して、本日の福音に読まれるように、複雑な様相を呈していました。第五代ローマ総督Pontius Piratusが紀元26年に就任した時は、そういうユダヤの分裂と対立が静かに深まりつつあった時代だったのです。

⑤ ユダヤ社会がこのような様相を露呈していた時に、神の言葉が荒れ野の、察するにエッセネ派の所で成長し修行を積んでいた洗礼者ヨハネの心に降ったのだと思います。そこで彼は、ヨルダン川沿いの地方に行って、罪の赦しを得させる悔い改めの説教を宣べ伝え、洗礼を授け始めたのだと思います。マタイもマルコもルカも皆、これはイザヤ預言者が予言した通りであることを明記していますが、マタイとマルコが「荒れ野で叫ぶ者の声がする。主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」という、イザヤ40章3節だけを引用するに留めているのに対し、本日の福音を書いたルカは、それに続けて5節まで引用しています。それは、その声が人々の心に与える恵みと成果についても、大きな関心を持っていたからだと思います。4節には「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。云々」と、その神の声がもたらす結果が受動形で述べられていますが、これは聖書によく見られる「神的受動形」と言われるもので、神を口にするのが畏れ多いので、神の働きやその結果を受動形で表現しているのだと思います。従って、谷を埋め、山を低くし、道をまっすぐにするのは、皆神ご自身のなさる救いの業であると思われます。そして人は皆、神によるその救いを仰ぎ見るのだと思います。

⑥ 洗礼者ヨハネの時から新しく始まった、神である救い主によるこの救いの御業を継承し、祈りつつその恵みを多くの異邦人たちに伝えていた使徒パウロは、本日の第二朗読の中で、入信した人々が神の霊によって与えられる知る力と見抜く力とを身につけて、神の愛にますます豊かになり、本当に大切なことを正しく見分けることができるように、そしてキリスト来臨の日に備えて清い者となり、キリストによる救いの恵みを溢れる程に受けて、神の栄光を永遠に称えることができるようにと、祈っています。待降節には、こういう神の働きを正しく識別する力を願う祈りが特に大切だと思います。使徒パウロは、正邪の識別が極度に難しく、混迷の度を増している現代のグローバル世界に生きる私たちのためにも、正しく見抜く力、見分ける力の大切さを強調し、あの世で私たちのためにも祈っていてくれるのではないでしょうか。

⑦ 主の再臨に備えて心を準備する待降節に当たり、私たちも今目覚めて立ち上がり、神の働き、無数の先輩聖人たちの祈りに感謝しつつ、受けたその恵みに相応しく応えるよう、努力しなければならないと思います。ただ口先だけで「主よ、主よ」と言いながら、全てを神様任せ、他者任せにする怠け者であってはなりません。本日の第二朗読にある「知る力と見抜く力とを身に付けて、あなた方の愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そしてキリストの日に備えて、清い者、咎められるところのない者となり、云々」という使徒パウロの祈りが、一人でも多くの人の内に実現しますよう願い求めつつ、本日のミサ聖祭をお献げしましょう。