2009年12月25日金曜日

説教集C年: 2006年12月25日、降誕祭日中ミサ(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 52: 7~10. Ⅱ. ヘブライ 1: 1~6.
     Ⅲ. ヨハネ福音 1: 1~18.


① 本日の日中ミサ聖祭は、ローマ教皇のご意向に従って全教会・全人類の上に、人となってこの世にお生まれになった救い主の祝福を願い求めて献げられます。世界中のキリスト者たちと心を合わせ、この意向でお祈り致しましょう。本日の第二朗読には、「神はかつて預言者たちによって語られたが、この終りの時代には御子によって語られました」という言葉が読まれます。「この終りの時代」という表現は、神の子メシアのこの世への来臨が、すでに終末時代の始まりであることを教えていると思います。メシアの先駆者洗礼者ヨハネの、人々に悔い改めを迫る厳しい説教も終末時代の到来を示していますが、しかし聖書によりますと、終末は神による審判よりも、むしろ神による被造物世界の徹底的浄化刷新と生まれ変わりを意味しており、それは一瞬のうちになされるのではなく、人となられた神の子と、その神の子の命を受け入れ、その命に生かされて生きる無数の人間の働きによって、長い年月をかけてゆっくりと実現するもの、長い成長期や準備期を経た後に、突然に世界の表に現われ実現するもののようです。ちょうど最後の晩餐から受難死・復活までの短時日のうちに成就したメシアによる贖いの御業が、その前にメシアの誕生・成長・宣教活動という長い年月の生命的準備期を基盤としているように。とにかく聖書の言葉が、神の子メシアの来臨を終末時代の始まりとしていることは、注目に値します。

② 本日の福音は、ヨハネ福音の序文(プロローグ)からの引用ですが、この世に来臨なされた神の子メシアの本質が何であるかを教えていると思います。それによると、かわいい幼子の姿で赤貧の中にお生まれになったメシアは、実は永遠に存在しておられる神で、万物を創造した全能の神のロゴス、すなわち神の言葉であり、全ての人を生かす神の命、全ての人を照らす神の光なのです。「言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった」という、ただ今朗読された聖句に注目しましょう。その言葉は、私たち人間の言葉とは全く違う、愛の命と光とに溢れている全能の神の言葉なのです。この言葉、すなわちロゴスは、三位一体の共同体的愛の交わりの中では永遠に明るく燃え輝いている光ですが、神に背を向け目をつむる暗闇には理解されず、その暗闇の勢力下に置かれて、神に背を向けて生きる暗い罪の世に呻吟し、道を求めている人たちを訪ね求めて救うため、己を無にして本来の光と力をそっと隠し、赤貧の内にか弱い幼子の姿でこの世にお生まれになったのです。私たちのこの日常的平凡さの中に、深く身を隠して現存しておられる神のロゴスを、温かく迎え入れるか冷たく追い出すかの態度如何で、人間は自ら自分の終末的運命を決定するのだと思います。恐るべき終末の審判は、今すでに始まっていると言ってよいでしょう。

③ ある聖書学者たちは、ヨハネ福音のプロローグは、洗礼者ヨハネについて書かれている部分以外は、初代教会の古い賛歌を基にして作られていると考えています。その見解に従ってヨハネによって追加されたと思われる部分を削除してみますと、その古い賛歌は、1節から5節までの前半と、10節から14節までの後半との二つの部分に分けてよいと思います。そこで今日は、この賛歌についてもう少し詳細に考えてみましょう。日本語の訳文では、言葉(ロゴス)という単語が頻繁に繰り返されていますが、原文では前半部分の1節と後半部分の14節にだけ登場し、他の節では代名詞などに代えられています。

④ 前半は神のロゴスによる万物創造の業を讃え、後半は同じそのロゴスの受肉と人類救済の業を讃える賛歌ですが、前半のロゴスは、創世記第一章の始めとも深く関連しています。例えば創世記は「初めに」という言葉で始まっていますが、ヨハネの福音も「初めに」という同じ言葉で始まっています。この「初めに」は、最初にというような意味の時間的始まりを指している言葉ではなく、時間以前の根源的力のようなものを意味しており、ラテン語でも in principio と翻訳されています。時間空間は物質界が創造された時、その被造物に必然的に伴う枠組みとして一緒に創造された一種の被造物ですが、そういう枠組みも何も全くない神の超越的本源のうちに、神のロゴスは神とともにある神だったのです。創世記もヨハネ福音も、その「超越的本源の内に」を「初めに」と表現し、それがラテン語でin principioと翻訳されているのです。

⑤ 創世記は、被造物として次々と存在し始めた万物の側から、神による創造の業を描写していますが、ヨハネの福音は、その被造物を産み出し支えている神の側から語っています。神のロゴスによらずに造られたものは、何一つ存在しないのです。このロゴスの内に命があり、「この命は人間の光であった」と述べられています。ここで言われている光は、太陽や星などの物質的科学的な光ではなく、それ以前のもっと霊的な光を指していると思います。創世記にも、まだ太陽も星もなく、被造物全体が深淵の水のように流動的で、深い闇に覆われた混沌状態にあった時、神が「光あれ」と言われると、光が輝き出て、光と闇の世界が分かれたように描かれていますが、ここで言われている光も、物質的科学的光ではなく、神よりの力に溢れた霊的光であると思われます。

⑥ 現存する宇宙万物の存在の根底に、神よりの力溢れる霊的光と、それに照らされずにいる闇とが共存しているのではないでしょうか。ヨハネの福音にある「光は闇の中で輝いている。闇はこの光を阻止できなかった」という言葉は、このことを指していると思います。本日の福音に「理解しなかった」と邦訳されているカタランバノーというギリシャ語は、追い越す、打ち勝つ、阻止するなどの意味を持つ言葉で、この場合は「阻止する」の訳の方がよいように思いますので、そのように訳しました。では、万物の存在の根底に隠れていて、神の光に抵抗しているというその闇とは何でしょうか。聖書はここではそれを明示していませんが、私はそれは闇の勢力、人間の創造以前に神に反抗し、この世を支配していようとする悪魔の勢力を指していると考えます。

⑦ 広い宇宙には私たちの想像を遥かに絶する程多くの光り輝く星が点在しており、それに劣らず多くの暗黒星も散在しているようですが、それらの星々の周辺には、空間的にそれらを遥かに凌ぐ暗いガス状エネルギーが広がっていると聞きます。数多くの光り輝く星たちと、その周辺に群がっている膨大なガス状エネルギーとの共存、これが私たちの生活しているこの世の霊的現状のシンボルなのではないでしょうか。最近の科学技術の画期的進歩で宇宙の深遠な神秘が次々と明らかになるにつけ、私は時々そのように考えながら、宇宙研究の成果に注目しています。神は光の国に導き入れられた人々を鍛えて、一層豊かに実を結ばせるためにも、事ある毎にその周辺に群がる闇の勢力を強いて排除してしまおうとはせずに、終末期の最後の瞬間が来るまで共存させているのではないでしょうか。私たちの周辺に展開している闇の勢力は、ある意味で私たちの生命を活性化させ、逞しく発展させる貴重な刺激剤や養分であります。それが神のご計画であり、意思であり、また私たちの置かれている現実であるなら、神から遣わされて闇の支配下にあるこの暗い罪の世にお生まれになった救い主と共に、日々雄々しくその闇の勢力と対決し戦うことを、私たちも覚悟し、決意を固めていましょう。

⑧ 本日の福音であるロゴス賛歌の後半は、人となってこの世に来臨した神のロゴスについて語っています。ご自分の民の所へ来たのに、その民は受け入れなかった、という悲しい言葉が読まれますが、しかし、受け入れた者には神の子となる資格を与えた、という喜ばしい言葉もあります。罪に穢れたこの世の暗い内的闇の勢力に囲まれて生きている私たちには、自分の力、自分の努力によって神の子の資格を得たり、その恩恵に浴したりすることは全く不可能ですが、己を無にしてこの世にお生まれになった神のロゴスが、信ずる全ての人にその恵みを無償で与えて下さいます。社会の伝統的秩序や価値観が悪を統御する力を失って、闇の勢力が世界中に跋扈する様相を呈し始めている今日、私たちを神の子とし、全能の神の働きによって罪の闇から救い出して下さるため、この世にお生まれになった神の御子にひたすら縋り、私たち自身も御子に倣って己を無にし、貧しさ・小ささを愛すること喜ぶことによって、内的に深く神のロゴスに結ばれるよう努めましょう。クリスマスに当たり、絶望的不安のうちに真の道を捜し求めている多くの人々の上にも、そのための導きの光と恵みの力とを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。