2009年12月13日日曜日

説教集C年: 2006年12月17日、待降節第3主日(三ケ日)

朗読聖書:Ⅰ. ゼファニヤ 3: 14~17. Ⅱ. フィリピ 4: 4~7.
     Ⅲ. ルカ福音 3: 10~18. 

  
① 本日のミサは昔から「喜びのミサ」と呼ばれて来ました。入祭唱に「喜べ」という言葉が二回も重ねて登場するからでもありますが、それだけではなく、第一朗読にも第二朗読にも「喜び叫べ」「喜び躍れ」などの言葉が何回も言われているからです。いったい神は、なぜ「喜べ」と言われるのでしょうか。なぜ「恐れるな」と言われるのでしょうか。第一朗読はその理由を「イスラエルの王なる主がお前の中におられる」から、「主なる神がお前のただ中におられて、勝利を与えられる」からなどと説明し、第二朗読は「主が近くにおられる」からと説いています。しかし、主なる神は単に近くにおられる、あるいは私たちのただ中におられるだけではないのです。第一朗読の末尾には、「主はお前のゆえに喜び楽しみ」「お前のゆえに喜びの歌をもってたのしまれる」という言葉も読まれます。私たちに対する大きな愛ゆえに喜び楽しんでおられるその神と共に喜ぶよう、私たちは神から呼びかけられているのではないでしょうか。神が私たちの中におられて愛の眼差しを注いでおられる、私たちを救おう助けようと、じーっと見つめておられるのだと信じましょう。そう信じ、その信仰に堅く立ってこそ初めて、恐れや思い煩いが消えて行くのだと思います。

② 「愛する」とは、「見つめること」だと思います。神は隠れておられても、私たちをじーっと見つめておられるのです。私たちもそれに応えて、時々その神を信仰の眼で見つめるように致しましょう。何も言わなくてもよいのです。ただ静かに神に感謝と愛の心の眼を注いでいると、神の霊が私たちの中に働いて、心に深い喜びが湧いて来るのではないでしょうか。日々の黙想の時など、目をつむって神の愛の視線を体全体の肌で感ずるように心がけましょう。そして目には見えないその神の御心に私たちの感謝と愛の心を向けながら、静かに神と共に留まるように努めてみましょう。このようなことを数回重ねても、何の変化も感じられないでしょうが、しかし、習慣は習慣によって直さなければならないと思い直し、尚も度々続けていますと、不思議に神が私に伴っておられて私を護り導いてくださるのを、小刻みながら幾度も体験するようになります。そしてこのような小さな体験が積み重なると、私たちの心の中に神に対する感謝と愛が深まってくるのを覚えるようになります。神が私の内に、働いて下さるのだと思います。

③ 本日の福音は、二つの部分から成り立っています。前半は洗者ヨハネの説教ですが、約束されたメシア到来の時が来たことを自覚している群集が、何か社会改革・ユダヤ独立のために自分たちもなすべきことがあるのではないかと思ったのか、何をしたらよいかと尋ねたのに対して、ヨハネは、貧しい者たち、困っている者たちに分けてやるように勧め、徴税人や兵士たちにも同様、規定以上のものを取り立てないように、自分の給料で満足するようになどと、今置かれている地位や職業の中で信仰をもって心がけるべき、ごく平凡な心構えについて勧めただけでした。群衆は少し拍子抜けしたかも知れませんが、実は主キリストも同様に、社会活動や政治活動などではなく、例えば金持ちの青年には、子供の時から教わっている掟の遵守や貧しい人々への施しを勧めるなど、既にユダヤ教会でも子供の時から教わっている教えを実践すること、そして自分の日ごろの生活を厳しく律することだけしか勧めておられません。この点では、洗者ヨハネと同じ立場に立っておられると思います。主は一度「皇帝のものは皇帝に返し、神のものは神に返せ」とおっしゃったこともありますが、皇帝のためのこの世的政治・社会活動よりも、まずは神のための各人の生き方の改善・変革を優先して、おっしゃったお言葉であると思います。

④ 新約のメシア時代には、自分の置かれている所で神に心の眼を向けながら、愛に生きること、日ごろの生活を厳しく律することに努めるなら、そこに主キリストの愛の霊が働いて、その人をも周辺の社会をも変革し、神による救いへと導いて下さるというのが、聖書の教えなのではないでしょうか。「悔い改め」だの「改心」だのという言葉を聞くと、自分の心を変えるために自力で何かの苦行などをすることと考える人がいるかも知れませんが、神がそして教会が、待降節に当たって私たちに求めておられる「改心」は、それとは少し違うと思います。マザー・テレサは次のように話しています。「人々は、改心を突然変わることだと思っていますが、そうではありません。私たちは、神と顔と顔を合わせると、神を自分の生涯の中に迎え入れて変わるのです。……もっと善い人になり、もっと神に近い者になるのです」と。ここで言われているように、もっと神に心の眼を向け、神の霊を自分の心の中に迎え入れることにより、神の働きによって私たちの心が変わること、それが、新約時代の私たちが、待降節に当たって神から求められている改心だと思います。

⑤ 本日の福音の後半には、旧約時代最後の預言者である洗者ヨハネと救い主イエスとの違いが、ヨハネ自身の言葉によってはっきりと示されています。ヨハネは水で洗礼を授けますが、それはいわば、人の体を外的に水に沈めることにより、その人の心にこれまでの自分中心の生き方に死んで、新しく神中心に生きようとする悔い改めの心や決心を呼び起こさせるためのものであると思われます。ところが、ヨハネよりも遥かに「優れた方」が来られて、聖霊と火で洗礼をお授けになると言うのです。ここで「優れた」と邦訳されているイスキューロスというギリシャ語は、強いとか、力あるという意味の言葉ですが、その方は、ヨハネがその足元にも近寄れない程、遥かに強い神の力に満ち満ちておられる方なのです。そして聖霊と火で、すなわち人を外的に洗うことによって悔い改めさせるのではなく、人の心を直接内面から徹底的に浄化し、神の愛の火によって生きる生命力を植え込む洗礼をお授けになる、という意味なのではないでしょうか。

⑥ 新約時代にも水で洗礼を授けますが、それはヨハネの洗礼とは根本的に違って、聖霊と火による内的洗礼の象りであり、体を全部水に沈めなくても、その人の魂を清めて主キリストの命に参与させ、神の住まい、聖霊の神殿に変える力を持つ洗礼であります。私たちの魂は皆この洗礼を受けて、神の神殿となっているのです。救い主から受けたこの大きな恵みに感謝しつつ、終末の日にその主を少しでも相応しくお迎えできるよう、神への愛と信仰の精神で日ごろの生活を整え、自分の心も厳しく律する実践に努めましょう。そしてそういう信仰実践のための照らしと力とを、今の世に苦しんでいる多くの人々のためにも、本日のミサ聖祭の中で祈り求めましょう。