2012年9月16日日曜日

説教集B年:2009年間第24主日(三ケ日)


朗読聖書: . イザヤ 50: 5~9a.     . ヤコブ 2: 14~18.  
   . マルコ福音 8: 27~35.

   本日の第一朗読であるイザヤ書の40章から55章までは、バビロン捕囚とその直後頃の預言書で第二イザヤ書と呼ばれていますが、そこには42章、49章、50章、52章から53章と、「主の僕の歌」と言われている美しい詩文が四つ読まれます。本日の第一朗読は、そのうちの第三の歌からの引用であります。第二イザヤ書に登場するこの「神の僕」が誰であるかについては、預言者個人であろうとか、捕囚の苦しみを受けているイスラエルの民であろうなどと、旧約時代から相異なる解釈が試みられていたようですが、いずれも皆を納得させることはできずにいました。しかし、メシアの受難死が現実となってみますと、それらは全て何よりもメシアのことを預言したものとあるという解釈が、キリスト教会の内に定着しました。

   「私は逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ、云々」と続く長い独り言は、ご受難の時の救い主イエスのご心情についての預言であると思います。感謝の心で主のお言葉に耳を傾けると共に、本日の朗読箇所に二度登場する「主なる神が助けて下さる」というお言葉も、心に銘記しましょう。私たちはそのような耐え難い苦難に直面すると、自分の弱さや自分の力の限界にだけ目を向け、もうダメだと思い勝ちですが、主イエスはそのような絶望的苦難の時にこそ、何よりも全能の父なる神の現存と助けに心の眼を向け、「私の正しさを認めて下さる方は近くにいます」と心に言い聞かせて、天の父なる神のその時その時の助けに支えられつつ、受ける苦しみを一つ一つ耐え忍んでおられたのではないでしょうか。主は本日の福音の中でもペトロを「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と厳しく叱責しておられます。何よりもまず、神の御旨をたずね求めてそれに従おうと努める、このような信仰心のある所に神の力が働いて、人間の力では不可能なことも可能にしてくれます。いつの日か私たちも死の苦しみを迎える時、主のこの御模範に倣い、主と一致してその苦しみを多くの人の救いのために献げるように致しましょう。

   本日の第二朗読であるヤコブ書は、様々の具体例をあげて神に対する信仰と愛に基づく行いの重要性を教えていますが、本日の箇所に読まれる、「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」という言葉は大切だと思います。ただ聖書を研究するだけ、あるいは聖堂で祈るだけのファリサイ的な頭の信仰に留まっていてはなりません。それは、神から戴いた言葉の種や神の愛の火を、心の奥に蓋をしてしまいこんで置くようなもので、やがてその命も火も消えてしまいます。神よりの命は、実生活に生かしてこそ心に根を張り、成長して実を結ぶのであり、愛の火も、日々小刻みに実践を積み重ねることによって、次第に輝き始めるのだと思います。その実りや灯りの輝きを期待しつつ、隠れた所からそっと私たちを見ておられる神の現存に対する信仰の内に決心を新たにして、本日のミサ聖祭を献げましょう。