2012年9月23日日曜日

説教集B年:2009年間第25主日(三ケ日)


朗読聖書: . 智恵 2: 12, 17~20.     . ヤコブ 3: 16~ 4: 3.  
   . マルコ福音 9: 30~37.

   本日の第一朗読には、神に逆らう者の言葉ですが、「彼の言葉が真実かどうか見てやろう。生涯の終りに何が起こるか確かめよう。本当に彼が神の子なら、助けてもらえるはずだ」などとある言葉から察しますと、これらの言葉は、主イエスの御受難の場面をあらかじめ神から示され、それを予見しながら語られているように思われます。豊かさと便利さの中で生まれ育ち、子供の時からこの世的成功や幸せだけを目指す能力主義教育を、家庭でも学校でも受けて来た現代人の中には、自分の成功や幸せの邪魔になるものは全て排除してしまおうとする、視野の狭い利己的精神や人生観に囚われている心の人が少なくないようですが、そのような人たちは、誤った教育の犠牲者、正しい心の教育の欠如から数多く生み出された犠牲者だと思います。2千年前頃の豊かなギリシャ・ローマ文明の中で生まれ育った人々の中にも、そのような視野の狭い利己的人間、わが党主義の人間が、社会の中にはびこっていたのかも知れません。救い主は、貧しい者、弱い者、助けを必要としている者たちを社会的に抑圧し、苦しめて止まないそういう人たちの無数の罪を背負って償うためにも、天の御父神からあれ程大きな苦難を与えられ、それらによく耐えて人類救済の御業を達成なされたのだと思います。その背後には、心の教育の歪みや欠如に対する、万物の創り主であられる全知全能の神の激しい怒りと憤りの御心があるのではないでしょうか。

   「我に従え」という救い主の御言葉を受けて、主に従う信仰生活を営んでいる私たちも、視野の狭い利己的精神の蔓延している現代世界に対する神の御怒りに対する、恐れの心を失わないよう心がけましょう。神の啓示を知らない人や認めようとしない人たちの中には、別に神に従う人たちをいじめたり迫害したりしなくても、この世での現実的成功や幸せだけを基準にして、善悪・真偽を判断している人が多いと思います。神はかつてもっと大切な真理、全ての人、全ての存在は神中心に永遠に仕合わせに生きるために創られたのであることを知らせるために、預言者や神に従う人たちを強いて、そういうこの世的精神の人々の所へ派遣し、場合によっては殉教や貧困・軽蔑に喜んで耐える精神によって、世にその信仰を証しさせたように、神に従う私たちにも、今の世の人たちの前で神に従う人の心の力を証しさせようとなさる、苦しい試練の時をお遣わしになるかも知れません。覚悟していましょう。

   科学技術の発達によって、現代人は昔の人たちとは比較にならない程外的には豊かで便利な生活を営んでいますが、その豊かさ故に互いに苦楽を分け合って逞しく生きていた昔の人たちの共同体精神は崩れてしまい、内的には極度に孤独な生活をなしている人が少なくないようです。しかも、理知的個人主義教育のためか、宗教団体などの組織に組み入れられ束縛されることは嫌い、その閉ざされた孤独の中に立て篭もっているのではないでしょうか。そこには悪霊たちも、彼らを絶望に追い込もうと働いているかも知れません。経済的危機や就職難などもからんで、近年増加の一途をたどっているそのような人たちの心が、少しでも早く福音の光や神の愛の喜びに目覚める恵みを祈り求めましょう。

   神の啓示に基づいて考えますと、私たちの人生は死によって終わるものではなく、この世は仮の世で、私たちの本当の人生はあの世にあり、人間は本来あの世で永遠に生きるため、神の愛の内に生かされ、神のように自由で仕合せな神の子となって、神によって創られた全てのものを主キリストにおいて統治するために創られているようです。原罪によって誤謬と死の闇が支配するようになったこの苦しみの世に呻吟しながらでも、人間には、その闇と苦しみに鍛えられつつ、神の子の心を目覚めさせて鍛え上げ、あの世の本当の人生に備える恵みが与えられています。あの世中心のこのような人生観・価値観を、私たちの生き方を通して今の世の人々に証しするよう努めましょう。

   第二朗読の中でヤコブは、「得られないのは願い求めないからで、願い求めても与えられないのは、間違った動機で願い求めるからです」と警告していますが、ここで言う「間違った動機」というのも、あの世中心の人生観・価値観に基づいていないという意味だと思います。まず徹底的にあの世の人生中心の動機で生活する、主キリストや聖母マリアのような宗教的人間、内的に修道的人間になりましょう。そうすれば、私たちの心に蒔かれている神の御言葉の種が、神からの息吹によって次々と良い実を結ぶようになり、あの世の人生のため豊かな命を準備していることを実感するようになります。

   本日の福音には、「全ての人の後になり、全ての人に仕える者になりなさい」だの、「私の名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである」などという主のお言葉が読まれますが、これは、全ての人の救いのために神から派遣された主が、幼少の時から一生を通じて心がけておられた生き方なのではないでしょうか。私たちも、自分の仕事の足手まといでしかないと思われる無信仰の一人の子供や病人に対してさえも、その人が神から自分に派遣されている人かも知れないと思われる時には、主キリストを迎えるような温かい心でその人を受け入れ、神の奉仕的愛に生きるよう心がけましょう。「私を受け入れる者は、私ではなくて、私をお遣わしになった方を受け入れるのである」という主のお言葉も心に銘記し、助けを必要としているその一人の背後に臨在しておられる、天の御父に対する信仰を大切に致しましょう。神とのそのような出遭いは、私たちにとって大きな恵みの時でもありますから。