2012年9月14日金曜日

説教集B年:2009年9月14日十字架称賛の祝日(泰阜のカルメル修道院で)



1主イエスがかけられた聖なる十字架は、4世紀前半にキリスト教に完全な自由を与え、積極的に援助してくれたコンスタンティヌス大帝の母聖ヘレナ皇太后が、330年頃にエルサレムやベトレヘムなどの、救い主と関係ある地所や聖遺物を細かく調査した時に、秘蔵されていて発見された三つの十字架の一つに盲人を触れさせたら、奇跡的に癒された出来事から主の十字架として崇められるようになり、この聖十字架の発見は5月3日に祝われています。

2この時発見された長い聖十字架の一番下の部分1m程の木は切り離されてローマに運ばれ、コンスタンティヌス大帝がラテラノ大聖堂の正門から西北の方へ700m程離れた所に、「エルサレムの聖十字架聖堂」を建立して、そこに安置しました。皇帝はローマにラテラノ聖堂をはじめ、聖ペトロ聖堂、聖パウロ聖堂など七つの古い聖堂を建立しましたが、この聖十字架聖堂を建てるためには、エルサレムの西北にあった小さなカルワリオの山を崩して、その岩や土砂を当時の戦車5百台に積み、何回にも渡ってカイザリア港に運ばせて、そこから船でローマに運び、その土を地盤にして聖十字架聖堂を建設させたと伝えられています。ですから、エルサレムにはもうカルワリオ山はなく、ただその近くにあって主が葬られた墓所に聖墳墓聖堂が建っているだけです。一方、今日ではローマの聖十字架聖堂の香部屋の横から聖堂裏の方へ、緩やかなスロープを登りながら十字架の道の祈りができるように、十字架の道行の祈りの各留が設けられており、一番高い所からは左にラテラノ大聖堂、右にサンタ・マリア・マジョーレの大聖堂が眺められます。......

3他方、エルサレムでは5世紀から、復活聖堂の献堂を記念する913日の翌日に聖十字架を崇敬する行事が行われていたそうです。ところがササン朝ペルシャ帝国のコスロアス王が614年にエルサレムを急襲し、総大主教ザカリアを捕虜として引き上げる時、エルサレム教会の無二の宝物であった聖十字架をも分捕り品として持ち去りました。そこで東ローマ皇帝ヘラクリオスは、強力になったペルシア軍を相手に15年間も戦い続け、遂に勝利して講和の条件の一つに、奪われた聖十字架の返還も要求しました。伝えによると、こうして返還された聖十字架を元の場所に安置する時、敬虔な皇帝ヘラクリオス自身がその十字架を担って運び込もうとしら、いくら渾身の力を込めても一歩も歩くことができず、そのうちに身動きもできなくなりました。この思いがけない有様に、周囲の人達は驚き呆れるばかりでしたが、その時総大主教ザカリアが御前に進み出て、「昔主キリストはこの十字架を、兵卒の古い粗末な衣服と茨の冠で担われたのですが、陛下が立派な御衣と黄金の冠で担われるのは、主の思し召しに適わぬからではないでしょうか」と申し上げたそうです。信心深い皇帝はそれを聞いて粗末な衣服に着換えてみたら、今度は難なくその十字架を運ぶことができたそうです。東方教会ではこの出来事を記念するために、この7世紀から十字架称賛の祝日が導入され、それが間もなく同じ7世紀に西方教会でも祝われるようになったと聞いています。

5ところが、東ローマ帝国に敗れたササン朝ペルシア帝国が急速に衰退し、642
 年にイスラム軍に敗れ、651年に滅亡すると、イスラム軍が聖地エルサレム辺りを侵略するようになったので、キリストの聖十字架はコンスタンチノープルら移されました。しかし、1202年から04年にかけての第四回十字軍遠征の時、ヴェネツィア商人たちに唆された十字軍はローマ教皇の意図に反してコンスタンチノープルを占領して、そこに保管されていた数多くの聖人たちの遺骨や聖遺物と共に、主の聖十字架をも奪ってしまいました。商人たちはそれらを高価に売りさばくことによって大儲けをすることを夢見たのかも知れません。時の教皇インノチェンツィウス3世はこの背反事件を厳しく非難しましたが、聖十字架はこの後分解され細分されて世界各地に分散されるに至りました。しかし、教皇庁は詐欺や偽物を可能な限り排除するため、教会の権威者たちが慎重に精査して、各破片が聖十字架よりのものであることを立証し、証明を添付するようにしました。

4カルメル会の十字架の聖ヨハネも、御受難会の創立者十字架の聖パウロも、主が日々自分に与えて下さる小さな苦しみや思わぬ失敗・苦難・不安・誤解などを、主と一致して快く受け止め耐え忍ぶことにより、多くの恵みをこの地上にもたらすことを、数多くの体験に基づいて述懐しています。私たちも......。