2012年10月14日日曜日

説教集B年:2009年間第28主日(三ケ日)

朗読聖書: . 智恵の書 7: 7~11.     . ヘブライ 4: 12~13.  
        . マルコ福音 10: 17~30.

   本日の第一朗読である知恵の書は、紀元前1世紀に当時のエジプトの首都アレキサンドリアに住むユダヤ人によって執筆されたと考えられています。アレキサンダー大王の時以来エジプトを征服し支配しているギリシャ系のプトレマイオス王朝は、被支配者の人口に比べてギリシャ人の少ないのをカバーするため、隣国のユダヤ人を優遇して大勢エジプトに移住してもらい、軍事面でも行政面でも活躍させていました。それで紀元前1世紀頃には、アレキサンドリアの町の五つの区画のうち、二つはユダヤ人街になっていたと言われています。有能で支配者に対して忠実であったこの頃のエジプトのユダヤ人たちは、経済的に豊かであっただけでなく、時間的余裕を利用して既にギリシャ語に翻訳された聖書もよく研究し、高い教養を持つ人たちが少なくなかったと思われます。知恵の書は、そういうユダヤ人によってギリシャ語で書かれたと考えられます。それで、エジプトでは聖書とされていても、ユダヤのラビたちには聖書と見なされていません。ヘブライ語で書かれたものでないからだと思います。

   神よりの智恵は、人間の体験や思索に基づくものではなく、神から直接に授けられるものであります。ですから執筆者は神に祈ったのであり、神から知恵の霊を授けられたのです。この世の金銀・宝石も、またどんな富も、この神よりの智恵に比べれば「無に等しい」と思われるほど貴重なものであります。しかし、「願うと智恵の霊が訪れた」、「智恵と共にすべての善が、私を訪れた。智恵の手の中には量り難い富がある」などの表現から察しますと、神よりの智恵はここでは生きている存在として描かれています。この書の8章や9章には、「智恵は神と親密に交わっており、万物の主に愛されている」だの、「(神の) 玉座の傍らに座している」などの表現も読まれます。知恵の書のこういう言葉を読みますと、コリント前書1章後半に使徒パウロが書いている「召された者にとっては、キリストは神の力、神の智恵である」という信仰の地盤は、ギリシャ人のこの世的智恵との出会いを契機として、すでに旧約末期からユダヤ人信仰者の間に築かれ始めていたように思われます。

   主イエスも、ギリシャ文化が広まりつつあったユダヤで、「天地の主である父よ、私はあなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを智恵ある人や賢い人には隠し、小さい者に現して下さいました。そうです。父よ、これはあなたの御心でした」(マタイ11:25~26) と祈ったり、弟子たちに「どんな反対者も対抗できず、反駁もできないような言葉と智恵を、私があなた方に授ける」と約束なさったりして、理知的なこの世の知者・賢者に対する批判的なお言葉を幾つも残しておられますが、最後の晩餐の時には「真理の霊」の派遣を約束なさり、その方が「あなた方を導いて真理を悉く悟らせる。云々」と、その知恵の霊、神よりの生きる存在として話しておられます。聖書のこの教えに従って、人間のこの世的経験や思索を最高のものとして、神よりの啓示までも人間の理性だけで批判的に解釈するようなおこがましい態度は固く慎み、聖母マリアの模範に見習って、幼子のように素直に神の智恵、主イエスの命の種を心の畑に受け入れ、その成長をゆっくりと見守りつつ、神の智恵の内に成長するよう心がけましょう。私たちの心は、神より注がれるこの生きる智恵に生かされ信仰実践を積み重ねることによって、神が私たちに伝えようとしておられる信仰の奥義を体験に基づいて悟るのであって、その奥義は、人間理性でどれ程綿密にキリスト教を研究し、その外殻を明らかにしてみても、知り得ないものだと思います。

   本日の第二朗読でも、第一朗読の「智恵」のように「神の言葉」が人格化されています。「神の言葉は生きており、力を発揮し、心の思いや考えを見分けることができます」などと述べられていますから。この「神の言葉」は、主イエスを指していると思います。その主は、私たちが日々献げているミサ聖祭の聖体拝領の時、特別に私たち各人の内にお出で下さいます。深い愛と憐れみの御心でお出で下さるのです。主は私たちの心の思いや悩みや望みなどを全て見通しておられる方ですので、くどくどと多く申し上げる必要はありません。全てを主に委ねて、ただ主に対する幼子のように素直な信頼と愛と従順の心を申し上げましょう。主の御言葉の種が、心にしっかりと根を下ろし、豊かな実を結ぶに到りますように。

   古い思い出になりますが、私が小学生であった昭和15年頃に「個人主義は捨てましょう」という呼びかけや、「新体制」という言葉を、社会でも学校でも度々耳にしたことがあります。日本の小学校はその翌年から「国民学校」と改称され、国のために命を捧げる軍国主義教育が盛んになりましたが、我なしのそういう教育を受け、国のため皆で助け合って生きる共同体精神に慣れていた、生真面目な性格の私は、戦争に負けて民主主義が鼓吹され、自由主義・個人主義が学校でも社会でも広められて来ると、敗戦で極度に貧しくなった社会にも道義心の乱れが酷くなったこともあって、そんな日本社会に生き甲斐が感ぜられなくなり、心理的ストレスのためか、中学4年の頃は学校から帰宅すると腰に痛みを覚え、よく横になっていました。しかし、社会の大きな過渡期に一年間ほど続いたこの悩み体験がプラスに働いたのか、中学5年の夏にカトリック教会で受洗し、半年後に多治見の修道院に入って司祭職への道を目指すようになったら、内的には大きな喜びと意欲と自由を覚えるようになりました。心の奥底が神のため福音のために自分の一生を捧げるという精神にしっかりと束縛されると、その目的以外の全てのものから、私自身からも自由になれます。私たちの心に本当の喜びを齎す自由とは、こういうものだと思います。

   今の日本社会には、戦後の自由主義・個人主義・能力主義の教育を受け、社会に出ても能率主義で競わされる生活を続けて来た人たちの中で、うつ病になっている人が少なくないそうです。特に真面目に努力して来た生真面目な性格の人間が、ある時に急に全てが恐ろしい程虚しく感じられる虚脱感に襲われ、過激な反社会的行動に走ったりするのだそうです。そういう話を耳にすると、同様に生真面目人間だった私は、カトリック信仰の恵みに浴し、神様に救って戴いたのだという感謝の念を新たに致します。最近の医者たちの中には、「燃え尽き症候群」という診断を下す例も増えて来ているそうです。全世界的な情報の流れの中で、小さな自分の力で自分中心の生き方を続けていると、やがて自分の夢も意欲も熱情も消えて、深い不安と無力感の内に全てが嫌になってしまう症状のようです。自分の力で生きるエネルギーが燃え尽きてしまう所に、原因があるのだと思います。最近自死する人が増えている一つの要因は、その病気にあるそうです。

   もし私がカトリック信仰の恵みに浴さず、小さき聖テレジアの「幼子の道」を知らずにいたなら、私も同様の悩みを抱えていたことでしょう。私はその「燃え尽き症候群」に対する一番効果的な治療法は、憐み深い神現存の信仰と、小さき聖テレジアの「幼子の道」にあると思います。神に対する頭の信仰では足りません。隠れた所から自分に伴い自分の生活の全てを見ていて下さる神に対する、生活実践に根ざした信仰が必要だと思います。小さき聖テレジアのように、自分の計画、自分の夢というようなものは持たず、何事にもただ神の導きに心の眼を向け、神に縋り、神の働きの器のようになって人々に、また社会に奉仕しようと努める時、自分中心主義に根差すそういう症状から完全に解放されるに至ると信じます。私たちも福音のため、そういう神中心の生き方を世の人々に実践的に証しするよう心がけましょう。それが、現代において神の知恵の霊に生かされる道であると信じます。