2012年10月21日日曜日

説教集B年:2009年間第29主日(三ケ日)

朗読聖書: . イザヤ 53: 10~11.     . ヘブライ 4: 14~16.  
        . マルコ福音 10: 35~45.

   毎年十月の最終日曜日の前の日曜日は、83年前の1926年に当時の教皇ピオ11世によって「布教の主日」とされましたが、その伝統が受け継がれて、今日では「世界宣教の日」と改称されています。十月に日曜日が五つある時には「世界宣教の日」は第四日曜日になりますが、今年は四つしかありませんので、第三日曜日である本日が「世界宣教の日」となります。ピオ11世教皇はこの「布教の主日」を制定するに先だって、1925年の聖年にヴァチカン宮殿で盛大な布教博覧会を開催し、カトリック布教地諸国の文化財を数多く展示して欧米人の布教地諸国の文化に対するそれまでの見解を改めさせています。この時展示された文化財はその後ラテラノ博物館に展示されるようになりましたので私も皆拝観していますが、そこに展示されていた日本の文化財の中には、何方が寄進したのか知りませんが、日本の博物館でも見られないような素晴らしく豪華な七重の重箱や豪華な屏風などもありました。またニューギニアから収集された幾つかの民俗学的発掘品も、その後にはもう二つと発見されない貴重な生活用品のように見えました。アジア・アフリカの布教地諸国から収集されたこれらの文化財は、今は1970年代に拡大されたヴァチカン博物館に保管されています。

   ピオ11世教皇は最初の「布教の主日」が祝われた直後の1028日に、御自ら中国人6名を司教に祝聖し、続いてインド人、フィリピン人、韓国人、アフリカ人たちも司教に祝聖しました。これは、それまで西洋人司教司教たちの統治下でだけ営まれていた布教事業に、新しい風を吹き込む画期的出来事でした。翌271030日には、最初の日本人司教早坂久之助師もローマで長崎司教として祝聖されました。ローマ教皇がこのようにして、先頭に立って布教地諸国の文化や生活様式などに適応する布教活動を推進しましたら、例えば1933年、昭和8年には、奈良の東大寺のすぐ近くの大通りに面して、奈良市役所の斜め前の敷地にフランス人のビリオン神父が、鐘楼を備えた仏教風の木造カトリック教会を献堂したり、昭和10年には、英国人のワード神父が軽井沢で丸太造りの多少神道風の聖パウロ聖堂を献堂するなど、各国でそれまでのカトリック布教とは違う様々の新しい動きが盛んになり、第二次世界大戦とその後の世界の動きによっていろいろと抑圧されましたが、しかしそれなりにかなりの成果をあげて、今日ではアジア・アフリカのカトリック教会は、西洋化し高度に文明化した我が国を別にすれば、かなりしっかりとそれぞれの国の伝統の中に根を下ろしつつあるという印象を受けます。

   しかし、現代文明が極度に発達して全地球化時代・グローバルと言われる時代を迎えている今日では、第二ヴァチカン公会議までの昭和前期とは宣教対象の様相が大きく違って来ています。わが国を含め、先進諸国の人々の文化や考え方が、それまでの世界観・人生観・人間観・宗教観などから大きく離れて来ているのではないでしょうか。最近ではかつてキリスト教国と言われていた欧米でも、伝統的キリスト教信仰から離れて生活している人が多いので、再布教・再福音化が必要だなどと叫ばれています。わが国のカトリック教会も、大なり小なり似たような状況に置かれていると思います。グローバル時代の現代では、以前とは違う新しいタイプの宣教活動が神から求められているのではないでしょうか。

   聞く所によると、先年他界した漫画家手塚治虫は700余のタイトルをもつ漫画を残しているそうですが、それらの漫画や、大なり小なりその影響を受けた日本人の漫画が今世界の多くの国々で愛読されているそうです。としますと、私はそれらの漫画を全然見ていませんが、それらのキリスト教信仰に生きていない日本人漫画家たちの世界観・人生観・人間観などが、興味深い数多くの漫画を介して無意識のうちに無数の人たちの心を染めているのではないでしょうか。漫画は人間の心が全く自由奔放に産み出すことのできるバーチャルな世界ですので、私の推察ですが、そこでは死んでも別の形や別の人の中で新しく生き始める、一種の新しい輪廻転生思想が多くの人の心を汚染し、神の御旨中心に真摯に生きるキリスト教信仰を全面的に受け入れ、それに従うのを難しくしているのではないでしょうか。先進国の現代人相手に宣教するには、漫画によって広められつつある新しいバーチャルな世界観・人生観・人間観などを弄び、ある意味では夢を見ているようになっている現代人の心を、まず実在する苦しみの世の厳しい現実に、はっきりと目覚めさせる体験が必要なのではないかと思われます。夢を見ている人の心には、どんなによく整っている論理も、そのままでは通用しないことが多いそうです。全ては今見ている夢の立場で、変形されてしまうからでしょう。洗礼の秘跡による救いの恵みは、生まれながらの自分中心の命や生き方に死んで、神の御旨中心の主キリストの新しい命や生き方に生かされ、神に対する従順と自己犠牲的奉仕愛の実践によって神から注がれると教わりましたが、夢のようなバーチャル世界に遊んでいるような心の現代人は、余程しっかりと苦しみの世の現実に目覚めて悔い改めに努めなければ、神による救いの恵みを受けることができないのではないでしょうか。

   現代の教会は、その宣教活動の内に、これまでにはなかったこういう全く新しい問題も抱えていると思います。本日の福音の中で主イエスは、一般社会に流布している支配様式を述べた後に、「しかし、(中略) あなた方の中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、全ての人の僕になりなさい。云々」と、一般社会とは対照的に異なる全く新しい仕方で教会活動を為すよう命じておられます。同じ主イエスは、全世界的現代文明・現代思潮の中に生活している人たちに対する宣教活動においても、一般社会の思想的流れや生き方とは全く異なる神への従順中心の生活に根ざした立場にしっかりと立つことから始めるよう、強く望んでおられるのではないでしょうか。福音宣教に従事する人たちが一人でも多く、神なる主のこのような御要望をしっかりと心に受け止め、神の霊に導かれ支えられて福音宣教の実績をあげるよう、豊かな恵みを祈り求めつつ本日のミサ聖祭を献げましょう。