2016年6月5日日曜日

説教集C2013年:2013年間第10主日(三ケ日)

第1朗読 列王記上 17章17~24節
第2朗読 ガラテヤの信徒への手紙 1章11~19節
福音朗読 ルカによる福音書 7章11~17節

   本日の第一朗読は、紀元前9世紀の預言者エリヤについての話です。エリヤがイスラエルの王アハブに、これから数年間雨が降らず露も下りない、という神の言葉を伝えると、イスラエル全土とその周辺地方に大旱魃が発生し、エリヤも神の言葉に従って、暫くヨルダン川東のケリト川のほとりで、数羽のカラスが毎朝晩運んでくるパンと肉に養われながら過ごしていましたが、その川の水も涸れ始めると、再び神の言葉に従ってシドンのサレプタに移り、そこにいた寡婦の食糧事情を奇跡的に助けてあげたら、暫くそこで生活することができました。第一朗読は、その奇跡の話に続く、寡婦の息子を蘇らせた奇跡の話であります。

   私たち人間の平凡な日常生活の中で働く、神のこういう導きや働きについて読んだり聞いたりしますと、私は時々自分の人生や平凡な日常生活の中でも、目に見えないながら同じ神が、私を導き働いて下さっておられることを思い起こします。本日は、そのことを少しだけお知らせ致しましょう。太平洋戦争直後頃に受洗した私は、1948年の春に多治見修道院に入って小神学生になりましたが、当時の修道院敷地の庭園は大きくて桜並木や美しい庭木などが沢山ありましたので、小さな丘一つ越えた東隣の有名な虎渓山永保寺の庭園と共に、「多治見公園」と呼ばれていました。それで町のすぐ近くにある修道院の庭園には散歩に訪れる人が多く、午後4時過ぎにその庭園を一巡してゴミ拾いをするのが、神学生の日課の一つになっていました。私は神言神学院が名古屋に創立されてからも、また司祭になってローマに留学してからも、小神学生時代に身に付けたこの習慣を捨てきれずに、一般道路の歩道を歩く時には時々道端に落ちているゴミや空き缶などを拾い集めて、ゴミ箱まで運んでいました。年老いた今も、日々その習慣を続けています。社会や生活空間の大きさを考えますと、そんな事をしてもしなくても、社会の汚れは殆ど変わらないと申してよいと思います。それでそんなゴミ拾いを、時間のむだ使いとして蔑視している人も多いと思います。しかし、私がその本当に小さな行いを神に捧げる心で為していますと、神はその小さな捧げに特別の関心を持っておられるようで、そのようなゴミ拾いに心がけている私には、神が他の人たちに比べて何倍も多くの幸運や不思議な巡り合わせや助けを、数多く与えて下さるように感じております。

   中学高校の教員資格を取得して司祭に叙階された私は、これからは南山の中学高校で教えるのだと準備していましたら、3月末に突然に神言会総本部から、南山大学で歴史を教える資格を取得するためローマに留学するように、という思いがけない任命を頂戴しました。初めは語学のことなどで心配しましたが、いざ留学してみましたら、これは神からの特別の恵みであり幸運であると思いました。そして歴史の論文を作成した時には、それは社会からも多くの人たちからも捨てられ忘れられている出来事や資料を拾い集めて研究する、どこかゴミ拾いにも似ている作業だ、と思い始めましたが、南山大学に就職して1970年に名古屋キリシタン文化研究会を立ち上げてからは、キリシタン史の研究はゴミ拾いに似ている、と度々実感するようになりました。

   72年春に沖縄が日本に復帰すると、新発田で私と一緒に公教要理を学んで信者になった植物学者の相馬研吾氏が、文部省から研究助成金をもらって西表島の植物の研究をしましたが、その相馬氏が石垣教会で主日のミサに参加したら、石垣島で火刑に処せられた石垣永将について史実を明らかにしてくれる学者を捜してほしいとの依頼を受け、友人である私がその研究を為すことになりました。するとその年の秋に、上智大学で毎年開催されているキリシタン文化研究会に、四国の今治教会主任のドミニコ会員ホセ・デルガード神父が初めて出席し、私と親しくなったので、デルガード神父の協力を得てマニラの聖ドミニコ大学から、1623年にマニラから石垣島に渡ったドミニコ会員ファン・デ・ルエダ神父に関する関連史料を、ゼロクス・コピーで取り寄せることが出来ました。この全ては、神が計らって下さった不思議な巡り合わせであったと思います。300年ほど前の17世紀後半に聖ドミニコ大学で編纂された、ドミニコ会ロザリオ管区百年史の中に、初めに十数年間日本で布教したルエダ神父が、フィリピンに暫く滞在した後に琉球に行ったことが書かれていることを、他の書籍を介して知っていましたので、その原典史料が現存していたらコピーして送って欲しい、と願ったのでした。するとルエダ神父の3年後にマニラから石垣島に渡った日本人のトマス西神父が、ルエダ神父が石垣島を統治していた官吏石垣永将に受け入れられて教えを説き、洗礼を授けたことや、後で薩摩藩の支配下に置かれていた琉球王国の役人たちが来て、神父も永将も捕縛され、別々に処刑された次第を地元の人たちから詳細に聴いて、それを長崎に到着してからマニラに書き送ったスペイン語の手紙のコピーが送られて来ました。私は西神父のその手紙を利用して、石垣島で講演したり、学会で論文を発表したり、文庫本を書いたりしました。私のこの研究は石垣島でも沖縄でも歓迎され、私は五回も旅費をもらって沖縄に渡り、あちこちで講演する栄誉に浴しました。

   ところで、私からの依頼の手紙を受けて、三百年前の管区史の基礎資料として保管されていた大きな紙包みを開けて見た、マニラの聖ドミニコ大学のドミニコ会員たちも驚いたそうです。私も後でその大学を訪れた時に、その包みが置かれていたと聞く古い物置部屋の棚を見せてもらいましたが、全く誰も注目しない所に保管されていた紙包みの中には、17世紀前半に日本で殉教したトマス西神父ら、ドニニコ会関係者16人の日本における殉教の殉教証言集とその関連史料だったのです。ドミニコ会のコリャード神父が日本で収集し、日本二百五福者の殉教証言集と共にローマに提出する筈の貴重な書類でしたが、ドミニコ会の管区史作成中だったので、その基礎資料として一時的にマニラに留め置かれ、それが管区史発行後の会員たちには受け継がれずに忘れ去られて、埋もれてしまっていたようなのです。しかし、私の依頼が契機となって明るみに出ますと、日本二百五福者よりも先に、ドミニコ会関係の殉教者たち16人が列聖されてしまいました。その中にはフィリピン生まれの人も一人いましたので、マニラのシン大司教はその列福式が1981年に行われることを知って、マニラの司教座四百年記念も兼ね、教皇によるその列福式がマニラで挙行されることを強くローマに願い出ました。すると時の教皇ヨハネ・パウロ二世も、これを機に、マニラだけではなくその人たちが殉教した日本にも行きたいと強く希望なされたので、事はローマ教皇の来日にまで進展しました。私はこれら全ての出来事の背後に、世に埋もれている小さな私を通しても働いて下さる、神の不思議な導きや働きを感じていました。他にも数々の小さな神の導きや助けを体験していますが、これからも人目につかない日々の小さなゴミ拾いを、神に対する感謝と希望の心で続けて行く所存です。


   本日の福音の中では、一人息子の御棺に付き添っていた母親をご覧になって、憐れに思われた主が、その御棺に手を触れて埋葬の歩みを留め、その息子を蘇らせて母親に返し与えるという、驚くべき奇跡をなさった話が語られています。受難死によって人類の罪を償い、あの世の不死の命に復活して今も生きておられる主は、哀れみの心情の深い人間であり、私たちの日常生活にも伴っておられて、私たちの苦しみも悲しみも、全てをご覧になっておられると信じます。思いやり深い人間であられる主イエスの現存信仰のうちに、日々主と共に生活するよう心がけましょう。しかし、その主の助けを受けるには、その信仰を頭の中だけ、祈りの時だけのものとせずに、日々の実践生活の場でも、人知れず伴っておられるその主に自分の労苦や病苦、小さな愛の奉仕などをお見せし、助けを願う信仰心が大切だと思います。マタイ福音10章によりますと、主は12使徒を派遣なされた時、「家に入ったら平安を祈りなさい。もしその家が相応しいなら、あなた達の祈る平安はその家に留まり、相応しくなければ、平安はあなた達に帰って来るであろう」とおっしゃいましたが、ルカ福音10章の始めに72人の弟子を派遣なされた時にも、「家に入ったら、まずこの家に平安と言いなさい。云々」と全く同様にお命じになりました。私は、これはその使徒や弟子に霊的に伴っておられる主ご自身が、派遣された人の口を介してなされる祈りであり祝福であると受け止めています。そして復活なされた主は、今も私たちの口を介してその祝福を人々に与えることを望んでおられる、と信じています。それで私は、どこかの家や修道院を訪れる時にも、「この家に平安あれ」と唱えています。私のその言葉を介して、主が実際にその家に恵みを与えて下さると信じるからです。それどころか、近年はバスに乗る時も列車に乗る時も、主に心の眼を向けながら、この言葉を唱えています。するといつも主の恵みに伴われて、旅行が大過なく順調に行くように感じています。よろしければ、皆様も試してみて下さい。終末的様相が深まりつつあるこれからの社会に生き抜くには、私たちの信仰をこのような小さな実践と結んで表明することが、ますます大切になるのではないでしょうか。